そして96年の理事長解任になるのですが、経営路線の対立も確かにありましたが、河村さんの下で働いていると多くの人が耐えられなくなるのです。河村さんに近づけば近づくほど、細かい注文が多くなる。本人は育てようと思っていても、指示を受ける側は潰されると感じてしまう。労働組合との経営を巡る路線対立もありましたが、そのベースには河村さんに対する反発心も少しはあったのではないかと思います。
 
 ただ面倒見は良かった。コープさっぽろで勤まらないなら日本生活協同組合連合会で働けるようにフォローしたり、面倒を最後まで見るところがありました。 実は私も、体調問題があってクーデターの前にコープさっぽろを辞めて北海道生協連合会の専務理事ポストに就きましたが、それも河村さんの紹介でした。
 
 私がそこに行くことになったのは、釧路市民生協の経営問題もあったからです。当時のコープさっぽろには、もう釧路市民生協を抱える余力はないことを河村さんも分かっていました。だから生協としては異例の和議に持ち込む方針を出さざるを得なかった。あの時、コープさっぽろに余力があれば和議という破綻処理はしなかったはずです。いずれにしてもクーデターと殆ど同時進行で釧路問題の対応に迫られていたのが当時の河村さんでした。
 
 河村さんが解任されてからは、個人的にも付き合いは殆どなくなりました。クーデターで理事長を追放されたことは本人も残念だったかも知れないけれど、河村さん自身は客観的に自分が犯した過ちを十分に知っていたのではないでしょうか。他から言われなくても河村さんなら自分で総括できたと思う。だから淡々と解任を受け入れたのでしょう。
 
 仮にクーデターが起きていなかったら、コープさっぽろも河村さんも、もっと傷を負っていたかもしれない。本来なら当時の理事や幹部たちが『それは違う』と論議して、河村さんの路線を修正していかなければならなかったが、路線を決定できるのは河村さんしかいなかった。最後の経営判断を河村さんに任せきりにしていたという意味で、私たちも同罪だと思っています。
 
 河村さんは、生協の店舗事業では問題を作ったが、生協運動として何を創っていくかを幅広く捉えた。そういう意味では彼ほどの人はいない。今でもコープさっぽろの中に北海道ユニセフ協会があるのは河村さんの功績だし、コープさっぽろ社会福祉基金の設立も河村さんがいたからです。
 
 私は現在、道内の生協に勤めたOBたちの集まりである虹友(こうゆう)会の会長をしています。河村さんにも会員になってもらっていました。しかし、とうとう総会などで河村さんを迎えることができなかった。昨年、コープさっぽろは創立50年を迎えたのを機に、発足当時の北大生協出身者たちが集まりました。その時にも、河村さんにそろそろ虹友会に出席してもらおうと話をしていたのです。そんな機会を作ろうと動き出した矢先だっただけに、本当に残念でなりません。(談)
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                                            (終わり)

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