河村征治コープさっぽろ元理事長の蓋棺録④重原祐治氏(北海道ユニセフ協会相談役)『河村の前に河村なし、河村の後に河村なし』

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 コープさっぽろの元理事長、河村征治さんが1月10日、76歳で死去した。コープさっぽろの礎を築いてきたリーダーだったが、1996年に志半ばで理事長を解任されてしまう。それから20年、再び表舞台に立つことはなかった。しかし、解任されるまでの時期は、北海道のチェーンストアを創りあげた流通史に残る人物だった。また、生協運動の社会的な広がりに弾みをつけた生協人でもあった。※蓋棺(がいかん)とは、人の評価は生前よりも棺の蓋をしてから定まるの意=蓋棺事定(ひつぎをおおいてこと定まる)から蓋棺録とした。IMG_2028(写真は、生協OB会の虹友会がまとめた故河村征治氏の葬儀写真集から)
 
 一時代を築いた河村さんを偲び、ゆかりのある人たちに思い出や人となりについて語って貰う蓋棺録の最終回は、北大生協、札幌市民生協(現コープさっぽろ)で河村さんとともに過ごした重原祐治・北海道ユニセフ協会相談役(75)。重原氏は、北大の学生時代に北大生協の学生委員を務め、河村さんと知り合った。その後、北大を中退して札幌市民生協の発足とともに同生協入りし、90年代にはコープさっぽろの理事に就いたが体調を崩して退任。その後、北海道生協連合会専務理事、道央市民生協理事長などを務めた。河村さんの近くにいたが、一定の距離感を保ち客観的に河村さんの人物像を語れる数少ない1人だ。重原氏にとって河村さんとはどんな人だったのか――。
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IMG_1362(写真は、重原祐治さん)
 
 河村さんと知り合ったのは、私が北海道大学に入学した直後でした。年齢は河村さんが1つ上ですが、私は北大に入るまでに寄り道をしてきているので、大学に入った時には21歳になっていました。大学に入ってもお金がないから稼がなければ食べていけない。幸い恵迪寮に入ることができたのですが、寮費は3食付いて月3000円。北大生協の学生委員をすると月4000円が貰えるというので、迷わず北大生協の学生委員になりました。
 
 それが、河村さんと知り合うきっかけです。河村さんは北大を卒業して北大生協に入ったころ。初対面で『よく来た』と酒を飲まされて酩酊したことを今でも覚えています。河村さんはあのころから酒が強かったですからね。
 
 当時の北大生協トップは、真鍋康弘氏で河村さんは購買部の責任者だったと思います。そのころから札幌市民生協(現コープさっぽろ)を設立するため、北大生協の理事会でよく議論されていました。真鍋氏は、いずれ札幌市民生協を立ち上げて移ることを考えていたので、北大生協の後継者として河村さんを考えていたようです。北大生協時代から、真鍋氏と河村さんは全く異なる性格でした。
 
 河村さんは、秀才中の秀才。思考も緻密です。私は、『河村の前に河村なし、河村の後に河村なし』と言っていたくらいです。強烈な個性と鋭い判断力がありました。一方の真鍋氏は、当時から大人の風貌です。真鍋氏は、トップとして体制を作ってしまうと、後は各分野の責任者に任せるというやり方でした。しかし河村さんは、こと細かく指示を出します。そういう意味では、北大生協のころから2人はトップとして対照的でした。
 
 私は、北大生協学生委員だったこともあって、大学の授業にはほとんど出ていなかったので留年してしまいました。そのころ、札幌市民生協がいよいよスタートするというので、私はその前年の昭和39年に北大を中退して北大生協の職員になりました。1年間購買部で食品担当として経験を積み、40年の市民生協発足とともに「大学村店」の食品担当に就きました。
 
 河村さんは、北大生協の専務理事で市民生協の理事も兼務していましたが、市民生協の理事会に出るだけだったので、そのころは私と接触する機会はありませんでした。
 しかし、市民生協が発足して6~7年後に多店舗化によって借入金が膨らみ、真鍋氏に代わって河村さんが市民生協のトップに就くことになりました。大学生協時代からの采配は変わることがなく、市民生協では『天皇』と言われる側面もそのころからありました。
 
 早く自分のレベルになって欲しいという思いが河村さんには常にあったのでしょう。私が理事に就いた時も『この本を読め』、『この本で勉強しろ』などこと細かく指示を出します。経営書、哲学書などありとあらゆる分野にまたがります。中国の古典『菜根譚』も読めと薦められたことを覚えています。
 
 チェーンストア理論を習得するために渥美俊一氏のペガサスクラブに入って河村さんも勉強しましたが、河村さんには店舗を増やしたうえでそれをベースにどんな形で社会を創りあげるかということを考えていたようです。単純に経営を考えるのではなく、経営を骨格にしていろんな運動を積み重ねていく志向があったと思います。
 
 当時の理事や幹部には、仏教大学が最終学歴となっている場合が多いのですが、これも河村さんの考えから発したものです。コープさっぽろが福祉活動を手がけるのが、そのきっかけでした。福祉を知るためには人の死を知らなければならない、そのためには宗教、とりわけ仏教を知らなければならない――ということで河村さんは仏教大に入ることにしたのです。それで、『大学を出ていない役職員は一緒に行こう』ということなって、高卒や大学中退の役職員を仏教大に入学させて大学卒業資格取らせると同時に福祉活動のベースを作ることにしたのです。河村さんは、そういう戦略的な動きをする人でした。
 

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