SATO社会保険労務士法人やSATO行政書士法人などSATOグループのオープンセミナーが25日、札幌市中央区のキャリアバンクセミナールームで開かれ、「すし善」の嶋宮勤代表取締役(77)が、『開業50年 すしの道一筋 伝統は改革によって守られる』をテーマに講演した。講演の要旨を抜粋する。今回はその1回目。(写真は、SATOグループオープンセミナーで講演する嶋宮勤代表取締役)

 嶋宮さんは昭和18年小樽市生まれ。小樽市立石山中学校在学中に家業の魚屋が倒産、中学に通いながら印刷屋でアルバイトを始める。高校を受験したものの、借金取りが家に押しかけていたため進学を断念。家業の関係で知り合った東京築地の魚屋を頼って働くことを決めた。印刷屋のアルバイトで貯めた3000円を使って小樽から東京まで30時間かけて築地に行ったものの、知り合いに会うことができず途方に暮れていたところに、声を掛けてくれた人がいた。
 嶋宮さんは、「頼ってきた人に会えない。どこか住み込みで働けるところはないでしょうか」と尋ねる。声を掛けてくれた人から、「銀座の食べもの屋なら住み込みで働けるところがたくさんある」と言われ、嶋宮さんは魚屋に近い寿司屋で働くことを決め、銀座8丁目の店で月給3000円の修業を始めた。それがすし職人になるきっかけになった。

 ところが1年でホームシックにかかる。残してきた弟や妹のことが心配になって北海道に戻り、札幌の南3条の寿司屋で働いたが、「寿司の本場でもう一度修業したい」という思いが強くなり1年で再び銀座に戻った。

 銀座で修業を重ねて10数年後の昭和40年代半ばに入ると、ゼネコンや商社の常連客がしきりに「札幌には寿司屋がない」と繰り返すのを耳にするようになる。嶋宮さんは「そんなことはない。札幌にも寿司屋はたくさんある」と反論したところ、その常連客は「寿司屋と言っても、鍋から天ぷら、ウナギまで何でも出している。そういう店は東京では『寿司屋』とは言わない」と答えた。

 嶋宮さんは実際に、札幌に出向いて寿司屋を見て回ったが、「どの寿司屋も建物が大きくて立派で、結婚披露宴もできるような店ばかりだった。『北海道に寿司屋がない』という意味がようやく分かった」と述懐する。
 折しも札幌は、昭和47年の冬季オリンピックに向けて活況を呈していた時期。嶋宮さんは一念発起、札幌で本物の江戸前の寿司屋を開き、新しい寿司文化を北海道で興すことを決め、ススキノの豊川稲荷の隣に昭和46年、8坪の店を開いた。それが「すし善」の始まりだった。

 しかし、「すし善」は全く繁盛しなかった。当時28歳、寝る間も惜しんで魚の下仕込みをして、寿司を握ったが、「当時の札幌では受け入れられなかった。やることが早過ぎたからで、仕込んだ魚がほとんど残ってしまったので家族と一緒に食べざるを得なかった。娘からは『普通のおかずが食べたい』と言われる始末でした」

 大通公園で考え込みテレビ塔を見上げて、「東京に本社がある企業の札幌支社の支社長なら江戸前の寿司の良さを分かってくれるのではないか。その人たちに食べてもらおう」とお昼時をめがけて皿に盛った寿司を配るようにした。あとで皿を取りに行くとお礼の手紙が入っている場合もあったという。
 そんなことを続けていたある日、支店長同士の集まりで「札幌に江戸前寿司を食べさせる店がある」と評判になり、徐々に店に来てくれるようになった。「あの頃は、接待と言えば『川甚』に行って料理を食べ、『チカル』で飲むのが流行っていた。その後に『すし善』で握り寿司を食べる接待が生まれ、どんどん繁盛し出した」と嶋宮さん。

 同業者の反応は手厳しかった。「あの店は変な魚に味付けしている」という噂もたてられたが、お客は増え続けた。「8坪では入りきれなくなり7坪増やして15坪にしたが、それでも入りきらなかった」
 支店長たちが乗った黒塗りの車が店舗前にずらりと並び、空くのを待つ光景が当たり前になっていったという。嶋宮さんはこう言う。「札幌の寿司の伝統は、美味しい生魚を使うことだったが、私は東京では当たり前の下仕込みをした魚を使う江戸前寿司を札幌に持ち込んだ。札幌ではそれが改革の意味を持った。そんな経験から、『伝統は改革によって守られる』という考えに行き着いた」 (以下、次回に続く)



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