SATO社会保険労務士法人やSATO行政書士法人などSATOグループのオープンセミナーが11月25日、札幌市中央区のキャリアバンクセミナールームで開かれ、「すし善」の嶋宮勤代表取締役(77)が、『開業50年 すしの道一筋 伝統は改革によって守られる』をテーマに講演した。講演の要旨を抜粋するシリーズの2回目を掲載する。(写真は、SATOグループオープンセミナーで講演する嶋宮勤代表取締役)

 ススキノで10年間「すし善」を経営してきた嶋宮さんは、一旦ススキノから離れることを決意する。ススキノには、生まれも育ちもススキノという生粋の料理人がほとんどいない中で、店舗を構え続けることに疑問を感じたためだ。札幌市の東や南、北で出店にふさわしい場所を探し、ようやく見つけたのが西の北海道神宮や円山公園に近い円山地区。「私は、『わざわざ』という言葉が好き。『わざわざ』食べに来てくれる程好い距離にあるのが円山だった。それに、『わざわざ』食べに来てくれてこそ本物という思いもあった」

 昭和50年代後半の円山地区には、食べもの屋は蕎麦の『東屋寿楽』しかなかった。ここでポツンと寿司屋を始めようと決めた嶋宮さんだが、銀行に融資を頼んでもススキノ以外で高級な寿司屋は成り立たないと、相手にしてくれなかった。ある日、生命保険会社の支社長が食べに来てくれた時にそんな事情を話すと、その支社長はオーベルジュ(郊外にあるレストラン)の発想だと理解を示してくれた。「その支社長が、『ススキノからお客を引っ張る自信はあるのか』と言うので、半分はったりを交えて『ある』と答えた。すると、トントン拍子に決まって1億円を融資してくれた。東京の魚屋も5000万円を融資してくれ、それを元手に円山で『すし善』を開店することになった」

 全国から空輸で最高のネタを仕入れて握りを提供する店にしたが、出る杭は打たれるというようにまたも同業者から「あんな高級な店は続かない」という噂が広まった。折しもバブル崩壊が襲い、「潰れる」と大評判になってしまった。ところが、そうはならなかった。
「バブル期の接待は、『川甚』→『チカル』→『すし善』の3点セットだったが、バブル崩壊後は『すし善』だけの接待になった。接待費が3分の1で済むからだ。それ以上に赤字を続けながらもネタの質を落とさず、冷凍や安いネタを決して使わずに味を守ってきたことが良かったのだろう。最初に店を開いた時もネタが余って家に持って帰ったが、この時もネタの半分は余ってしまい、自分たちで食べざるを得なかった。そうして歯を食いしばって耐え続けたのが良かったのだと思う」

 嶋宮さんが中卒で東京に修業に出て行った理由の一つは、父親への反発だった。「ダメな親爺だったけど、そんな親爺がよく言っていた言葉に『この世を去った時、周囲からあの人は偉かったと言われる人間になれ』ということがある。何の取り柄もない親爺だったが、その言葉だけは私の心に深く残った。私は良い寿司を作ることに邁進したためカネはいつもなかった。それなら人づくりで貢献しようと心に決めた。カネを持つのは銅メダル、仕事を立派に続けるのは銀メダル、人を立派につくり上げることが金メダルだと思って取り組んできた」

 嶋宮さんの元には、今でも本州や地元北海道から多くの寿司職人が修業に来る。良い職人を育てようと嶋宮さんは厳しい修業を課す。「半分以上は途中で逃げていき1~2割しか残らない。そういう人たちがみんな成功している。私が一番好きなのは正直な人間。正直な人間が寿司づくりの腕を上げていくほどうれしいことはない」

 コロナの影響で居酒屋やスナック、和食の店などが厳しい経営を強いられている。「どの寿司屋もお客が入らず苦しんでいるが、寿司屋は一軒も閉店していないと思う。事業ではなく家業の寿司屋が多く何とかやりくりしていることと、対面の商売であることも大きい。人と人との繋がりこそ寿司屋の原点だと思っている」
 最後に嶋宮さんは自ら言い聞かせるようにこう結んだ。「コロナ禍はバブル崩壊よりももっとひどい状況だ。バブル崩壊やリーマンショックでは我慢を重ねて乗り越えてきた。今回も我慢を続けて乗り越えていかなければならない」(この稿終わり)



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