(写真は、札幌市白石区菊水1条1丁目の「MORIHICO.STAY&COFFEE」)

 ーー今後の出店についての考えを聞かせてください。

 市川 経営者として大きな声では言えないですが、事業計画はほとんどないと言って良い状態です。というのは、多くが依頼される話で進むからです。今も海外出店の話が来ています。やりたいことがありますが、次から次に依頼されることを実行するのに必死という感じ。
 僕は、極めて営業下手です。自分から熱心に営業して仕事をもらうことがデザイナーの時代からできなかった。そのころ、どうやったらそんな人間でも食べて行けるかを真剣に考えました。仕事を依頼される状況をつくるのが一番自分に合っているのではないかと気付きました。今でも当社には営業部門がありません。どこかに訪問して仕事を取ってくる部門がないのです。

 アフターフォローの部門はありますが、毎月棒グラフを作って、今月はこれだけの件数を受注しようという会社ではない。そこが、逆に言うと最大の強み。つまり僕が究極の理想としていた「仕事が舞い込む会社」になったということです。「森彦だから何か面白いことをやってくれるのではないか」と思われているのでしょう。

 ーーそういう経営方法はどこから生まれたのでしょうか。

 市川 当社の経営をひと言で言えばロックンローラーです。私自身の生き方もロックンローラーですから(笑)。誰かがやっているからやるとか、これが流行っているからやるとか、そういったことではない。周りのことを気にしないで自分の生き方を生きることが経営の大きなテーマになっています。

 ーー子どものころからそういう生き方だったのですか。

 市川 片鱗はありましたね。僕は東京生まれで江戸っ子の7代目。江戸っ子の気質は親父と祖父の背中を見て育っているから自然に身に付きました。江戸っ子の三大定義というものがあります。「意気で、いなせで、反骨」。意気は生意気の意気で、いなせは弱きを助け強きをくじくこと。反骨は反骨精神。そんなことを感じながらずっと生きてきたわけで、それが自分の行動規範であり考え方のベースになっています。意気か、野暮かで事業を判断するのもそこから来ています。

 父も最初は東京で仕事をしていました。母は北海道出身で学生時代に父と知り合って結婚しています。父母はたびたび札幌に来ていたようです。東京で生まれ育った父から見ると、北海道は当時でも素晴らしい大地だったようです。僕は長男で男3兄弟。当時は高度成長の真っ只中で東京では雑木林が壊されビルやマンションがどんどん建っていく時代でした。そのころは国分寺に住んでいましたが、まだまだ武蔵野の面影が残っていました。住宅街のすぐ隣には鎮守の森もありましたが、ある時、樹齢300年の桜の木がバッサリと切られてしまったのを父が目撃したのです。息子たち3人をこういう環境では育てられないと思ったらしく、それがきっかけで札幌に移住することになったのです。

 今でこそ北海道への移住が増えていますが、当時はとても珍しかった。ただ、札幌オリンピック開催も決まっていましたから、札幌でも商業デザイナーで食べていけるのではないかということもあったと思います。(次回に続く)



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