ーーその「森彦」のオープンはいつころですか。

 市川 1996年6月10日です。「そろそろオープンしないとまずいぞ」ということになってね(笑)。当時はなかなか表現する言葉がなかったのですが、森彦の存在をひと言で言うと空間価値の提供です。
 僕は、コーヒー界の異端児と言われてきました。コーヒー界の人たちは多かれ少なかれコーヒーから入っていきます。コーヒーに興味を持ってバリスタになったり、ロースターになったり。彼らはコーヒーを提供する場としてカフェ、喫茶店を開くのですが、僕の場合は空間から入っていきます。

 かつてクリエーターになりたい、プロデューサーになりたいと空想したように、カフェに装置としての役割を持たせたのが「森彦」だった。もちろん、コーヒーがそこにないと商売としては成立しない。しかし、未だに僕は、「コーヒーは入場料」だと思っています。お客はこの店に入るためにコーヒー代を払う。「森彦」は1時間くらい並ばないと入れない店になっていますが、コーヒーを飲むためだけなら1時間待つ説明がつかないですよね。

 僕たちが手掛けているのはテーマパークと同じで言わばディズニーランドのようなもの。そこに入るチケットを手にするためのコーヒー代なのです。そうでなければ説明がつかない現象が続いています。僕自身がかつて喫茶店という空間に代金を払っている感覚でした。入り浸っていた喫茶店は、いずれも最高の空間に最高の美味しいコーヒーがあって初めて成立していたビジネスでした。その延長線上に「森彦」のような現象が起きているわけです。

 当社のスタッフたちは、美味しいコーヒーを作るため、眉間に皺を寄せながら議論をしています。僕は、「いくら美味しいコーヒーを作っても商売がそれで成立するということではない」といつも言っています。美味しいコーヒーを淹れればお客が来ると思っていたら大失敗をする。美味しいコーヒーを作るのは、僕たちの心の中で誇りを持つために必要だから。そこを勘違いすると経営が成り立たない。

 ーー市川さんが「森彦」に込めたモチーフは何ですか。

 市川 僕は、自分に良い影響を与える空間があるのではないかと思っています。空間自体に身を置くことでポジティブになれる居心地の良さというようなものです。当社には「もりひこノート」というお客に自由に書いてもらう落書き帳があります。そのノートを読むと大半が「職場での人間関係で疲れた」とか、「やっと就職できた」とか、「失恋を克服できた」など「森彦に来ることによって癒された」ということが書いてあります。

 癒すことを目的にカフェを作ったのではないのに、そういう側面があって利用されていることにあらためて気付かされます。人によって様々な癒され方があるのでしょう。そしてそれが存在意義になっている。経営者の思いとは違う存在意義があることがわかりました。

 ーー個性のある喫茶店を作っていくことで結果として癒し効果が出てきたということですね。

 市川 「もりひこノート」に書かれている反応をリアルに感じて経営してきましたが、今はそれがSNSになっているかもしれません。当時はそういうものがなかった。口コミは、本当の口コミで経営が軌道に乗るまでは時間がかかりました。
 オープンから3年間はずっと赤字。ある時、そのことを知り合いの経営者にぼやいたら「どれくらいの赤字額?」と聞いてきました。「年間30~60万円くらい」と言ったら「何を言っているんだ、そんなもの」と。当時、僕は現代美術の展覧会や個展を開いていましたが、いつも100万円くらいの持ち出し。それを考えたら、1年間楽しませてもらって30~60万円の赤字ならたいしたことはない。以来、事実は事実だが解釈をいかにポジティブに持つかという視点で会社経営をしています。

 ーーその3年間を経てからは順調ですか。

 市川 売り上げはずっと右肩上がり。それ以降、一度も下がったことがない。未だに倍々。現在、13店舗ですが、昨年だけで4店舗も開店しました。



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