札幌学院大学河西邦人学長インタビュー「新札幌キャンパスで地域経済の教育エコシステムをつくる」

道内大学・教育

 札幌学院大学が、2021年4月の新札幌キャンパスの開設を弾みに地域経済のエコシステム構築に動き出した。創業や事業承継といった地域経済に欠かせない人材を育てていくため、日本政策金融公庫や北海道中小企業総合支援センターなどと連携協定を締結、地域社会に開かれた大学運営を進めていく。地域経済の担い手育成に本腰を入れて取り組み、入学者確保にも繋げる。2019年4月に学長に就任して3年目に入った河西邦人氏(61)に自らの足跡と新札幌キャンパスの開設意義などについてインタビューした。
〈かわにし・くにひと〉…1960年4月東京都出身、97年4月札幌学院大学商学部商学科講師、98年4月助教授、2005年4月教授、09年4月経営学部教授、19年4月学長就任。

 ーー経歴を教えてください。

 河西 出身は東京・練馬区で江戸っ子です。父方は新宿で何代か続いている家柄、母親は満州で生まれましたが、元々は福島県だそうです。私は、北海道と縁がなかったので、まさにIターンで来道しました。水戸市にある茨城大学人文学部社会科学科を卒業して、早稲田大学大学院経済学科修士課程を修了、1988年4月に外資系証券会社に就職しました。
 しかし、業績が悪ければ、支社ごと閉鎖されるようなことが日常茶飯事でした。バブル崩壊前に入って、良い思いもしましたが、バブル崩壊とともに退社せざるを得なくなりました。92年3月に、青山学院大学国際政治経済学研究科で博士課程に入り、97年3月同大学大学院経営学研究科博士後期課程を満期退学しました。

 ーーバブル崩壊がなければ、外資系証券会社でずっと働いていましたか。

 河西 きっとそうだったと思います。その頃描いていた自分の人生ビジョンは、40歳くらいまでにある程度の財産を築いて、“アーリーリタイヤ”することでしたが、全然そうなりませんでしたね。会社を辞めてから、大学院に戻ることにはリスクがありました。大学院を出ても就職できるかどうかわかりませんし、大学教員のポストを得られるかどうかも全くわからない状況でした。親からは、ものすごく反対されました。
 思い切って大学院に戻る決意をしたのは、私自身の賭けでもありました。曲がりなりにも今、このような仕事をさせていただいているのは、その賭けの結果です。当大学の先生方は、とても温かく、私のような者を受け入れて育ててくれました。そのことに、とても感謝しています。

 ーー大学院に戻ろうと決断したのは、どうしてですか。

 河西 外資系の証券会社という、ある意味で資本主義の先端部分で働いていたのですが、それまであまり疑問に思っていなかった自由経済や資本主義に疑問が湧き上がってきたことが度々あったからです。当時、自由主義経済は非常に優れているとされていました。しかし、実際に働いてみると、すぐに解雇になる人がいたり、周りの人たちもどんどん入れ替わったりします。これで良いのか、という思いが芽生えていきました。特にバブルの崩壊は、大きな価値観の転換に繋がりました。自分自身の人生も考え直し、民主主義、自由主義経済ももう少し考えたいという気持ちが強くなっていきました。

 ーー大学院の博士後期課程を満期退学して、札幌学院大学商学部商学科講師として赴任されました。

 河西 1997年、36歳の頃です。北海道には、全く縁がなくて、当大学に採用されたという理由だけでこちらに来たので、最初の頃は友人知人もおらず、すごく寂しかったですね。

 ーー専攻は何でしょうか。

 河西 経営学と地域研究です。なぜ地域と関わるようになったかというと、ちょうど私がこちらに来た時、行政は民間流の経営手法を取り入れようとしていました。たまたま札幌市役所の任意の研究会に誘われて参加しました。秋元克広市長も係長の時だったと思いますが、その研究会のメンバーでした。そこで、行政の様々なことに関わった延長上で地域づくりにも携わるようになったのです。
 先ほど自由主義経済に対し疑問があるとお話ししましたが、大学院時代に非営利組織NPOに関心があって、いろいろ調べていました。高名なドラッカーは、非営利組織を資本主義経済、自由主義経済の担い手である営利法人のオルタナティブの一つと位置付けていました。そんなことを学んでいたので、こちらに来てからもNPOを調べていく中で、市民活動家の方々とも知り合いになりました。特定非営利活動促進法が制定された頃ですから、NPOのことを少しでも研究していると、市民活動家の方々や行政との関係も出てくるようになりました。北海道に来てから5年間はそういう状況でした。

 当時、拓銀の破綻など北海道経済は、非常に厳しい状況でした。いろんな取り組みが始まっていて、その中の一つに“協働”がありました。当時の堀達也知事は協働を推進することを決め、様々な指針、条例をつくりました。私にも声が掛かり、道の政策を研究する会にも参加するなど、行政の仕事がたくさん来るようになりました。断れば良いのですが、どちらかというと関心があるのは、大学の中での研究ではなく、行政や企業、NPOなど外部との関係から生じる研究でしたから、外の仕事を受けていたら、いつの間にか大きく広がっていったという感じです。その頃、公益法人改革があって、公益財団法人、公益社団法人に移行するための認可申請をする審議会にも8年ほど在籍したことがあります。

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