――パン部門にも進出しました。
 
 若山 パンは、2022年7月から取り組みました。パンは当社のルーツとも言える商品です。五島列島出身の初代調理長、五島英吉は、ロシア料理を学んだ人でしたが、パンには曰く因縁がありました。彼は、五島列島の武士の身ながら幕府の通訳をしていました。通訳といっても武士ですから戊辰戦争を経て函館に来て、新選組と一緒に箱館戦争を戦いました。幕府軍は敗れましたが、五島は生き残りました。でも、函館中で残党狩りが行われていましたから、見つかったら惨殺されてしまいます。函館の人づてに「ロシア領事館を頼れ」と言われ、領事館を兼ねるハリストス正教会に逃げ込みました。そこで、ニコライ神父と出会い、「10年間は教会にいても良いが、働いてもらう」ということで、五島はそこでロシア料理を学びました。

 約束の10年が過ぎ、教会から出る時、教会の人から「面白い人がいる」と紹介されたのが、五島軒初代の若山惣太郎でした。惣太郎は出身地の埼玉から東京に出て商売をしていましたが、米相場に手を出して痛い目に遭ったため、函館に逃げてきたらしいのです。函館には、外国人が多いので、一儲けするにはパン屋になれば良いと、明治11年にパン屋を開きました。教会の人が五島に引き合わせたのが、まさにその惣太郎でした。二人が出会ったことによって五島軒が誕生したわけです。ですから、パンは当社の原点と言えます。
 
 ――まさにルーツですね。
 
 若山 パン事業を始めたのは、今年の7月7日七夕の日から。政府の事業再構築補助金を受けて工場に最新型のオーブンを導入。そのタイミングに合わせて、工場の見学コースもつくりました。北斗市にある工場の近くには、小学校があるので、食育の一貫として工場見学をしてもらいたいという思いがあったからです。今は、カレーパンと食パン、クリームパンの3種類を作っています。これから種類を増やして、カツサンドなどもラインナップしていきます。
 
 ――パン事業を始めた背景には、もう一つの理由があるとか。
 
 若山 五島軒は以前、函館市内にたくさんの店舗を展開していました。市役所や競馬場、旧市民会館、駅前の旧拓銀ビル、五稜郭タワーにも店舗があって、ファミリーレストランとして親しまれていました。バブルが弾けた後に、そうした店舗が全部なくなっていき、市民との接点がどんどん少なくなっていきました。今、残っているのは、レストランが五島軒本店と五稜郭タワーの2店舗、ケーキショップが直営工場を含めて3ヵ所、それにテナントショップ2ヵ所です。ケーキショップを除けば、いずれも観光客の需要をメインにしています。市民が気軽に行ける五島軒は、長らく市内に存在していないような状態なのです。

 パン作りを始めれば、再び五島軒の味を函館市民によく知ってもらうことに繋がると考えました。その先には、路面店を出店して五島軒の味を函館市民にもう一度しっかりと届けたいという思いがあります。
 
 ――パンを製造するにあたってのこだわりは。
 
 若山 カレーパンの具に使うカレーを作るのには、とてもこだわりました。何度、試食しても納得できなくて、カレーパンを作るのに1年かかりました。レトルトカレーもそうですが、当社は牛骨からブイヨン(出汁)を取ってカレーを作っています。毎朝4時から牛骨と鳥の骨、ハーブ、野菜を入れてぐつぐつ煮込んでいます。6時間ぐらい経つとブイヨンができ、それを沸騰させて雑味を取ってからブイヨンにしています。

 それができたら、今度はカレーを作ってブイヨンでのばします。これはずっと五島軒がやってきたこと。私は最初、すごく非効率だなと思いましたが、当社のような企業規模でないとできないことだと後から分かりました。結局、そのブイヨンをパン製造で使うことによって、カレーパン用のカレーの味が定まりました。やはり、ブイヨンが決め手の一つだということを改めて感じさせられました。



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