新型コロナウイルスの影響が深刻さを増している。世界的なスキーリゾート地として人気の高い北海道ニセコもホテルやレストラン、リゾート施設は危機に直面している。世界のスキーリゾートに向けて外国資本の投資が続いてきたニセコはこの難局をどう乗り越えるのかーー現地の声を聞いた。5回目は、ニセコ地区の外国人による不動産投資のきっかけをつくった倶知安町字山田のニセコリアルエステート代表取締役ベン・カーさん(50)。(写真は・ベン・カーさん)
ベン・カーさんは、1970年オーストラリア・シドニー生まれ。シドニー大学在学中は経済学を専攻するとともに日本語も学ぶ。卒業後、東京の輸入商社に勤務していた時、オーストラリアの友人から誘われてニセコでスキーを体験。パウダースノーに感動し1997年倶知安町に移住。オーストラリア人のスキーツアーを手掛けていたが、ツアー客からロッジの購入を持ち掛けられたことがきっかけで2002年にニセコリアルエステートを設立。ニセコの不動産投資をリードしてきた1人。
ーー最初にカーさんが、ニセコで不動産取引を行うようになった経緯を教えてください。
カー 私は97年ころに倶知安町に移住しました。東京の輸入商社に勤めていた時、オーストラリアで旅行代理店をしている友人がニセコを訪れることになりました。私に現地を案内してほしいということだったので、初めてニセコに行きました。元々スキーが好きでその友人と1ヵ月程ニセコで遊んでいたのですが、すっかりパウダースノーに魅せられてしまいました。あまりにも強烈な印象だったので、東京の仕事を辞めて移り住むことにしました。スキーばかりしていても生活できませんから、その友人と連携してオーストラリアからスキー客を呼び込む仕事を始めました。徐々にスキー客が増えて行った頃に、『ニセコは素晴らしい。不動産は外国人でも買えるのか』と聞かれることが多くなりました。私は、たまたま倶知安町の司法書士である吉田聡さんと知り合いだったので、そのことを伝えると、吉田さんから『一緒に外国人向けの不動産会社を設立しないか』と言われて設立したのがニセコリアルエステートです。
もっとも2002年の設立当初は、不動産事業に本気で取り組む気はなく2人ともホビー感覚で不動産の仕事をしていました。それでも設立した年には3ヵ所ほど売れました。翌年になると、一気に10倍、30軒の売買が成立しました。これでは片手間にできないと思い、こちらの仕事に本腰を入れるようになったのです。忙しくなってくると吉田さんの司法書士の仕事も増えていきます。そうすると利益相反の場面が出てくるようになったので、吉田さんは会社から手を引き私が全面的に手掛けるようになりました。
ーー当時はオーストラリア人の不動産購入が中心ですか。
カー オーストラリア人の他に早い段階からグアムやサイパン、香港の人たちも買っています。グアムやサイパン、香港には新千歳空港の直行便があったことからニセコに来る人もいて不動産投資が進んだのでしょう。
ーー外国人の不動産取得が増えていったのは日本のバブル崩壊、スキーブームの終焉のタイミングと合致していますね。
カー 日本国内では、『私をスキーに連れてって』という映画が80年代後半に流行りましたが、私がニセコに来た97年頃はスキーブームも終わりかけていました。スキーブームの頃は東京の人たちがドリーム生活をニセコで送ろうと考え、ペンションやロッジをたくさん作りました。私が、オーストラリアのスキー客の宿泊場所としてペンションやロッジを使いたくても、日本人のお客が多かったので泊まらせてくれなかった。
バブル期に別荘開発が進んだニセコ地区ですが、もともとお金を持っている人たちが建てたものはバブル崩壊後も売却されることはありませんでした。しかし、ローンを組んで銀行から融資を受けて建てた人たちは返済ができなくなって競売物件がたくさん出ました。ロッジやペンションに売却の看板を掲げているところが増えていき、日本人のスキー客も減る一方でした。98~99年頃のニセコはかなり厳しい状態だったと思います。
ちょうどその頃から、オーストラリア人のスキー客が増え始めたのです。彼らは壊れかけているロッジやペンションを見て、『これ、どうしたの?』と聞いてきます。売り物件だと知り購入が増えていきました。日本人のスキー客が減らず、日本人がロッジやペンションを手放すことがなかったら外国人の不動産購入は進まなかったでしょう。たまたまタイミング重なったことが外国人の不動産取得のきっかけだったのです。