北洋銀行(本店・札幌市中央区)の頭取と会長を務めた石井純二氏が、2021年3月末に退任した。日銀出身者の頭取、会長が長く続いた北洋銀で旧北海道拓殖銀行出身のプロパー頭取として、北洋銀に新たな息吹を吹き込んだ功績は小さなものではない。頭取、会長在任10年、満70歳という節目ではなく、9年、69歳で退任を決意したところに石井氏の“らしさ”が表れている。拓銀破綻を経験してきた石井氏、柔和な人あたりの一方で剛毅な内面も垣間見える。石井氏に46年のバンカー生活を振り返ってもらい、コロナ禍の北海道が進む道をインタビューした。〈いしい・じゅんじ〉1951年芦別市出身。75年弘前大学人文学部卒、同年北海道拓殖銀行入行。2004年札幌北洋ホールディングス取締役、北洋銀行取締役。06年北洋銀常務、10年札幌北洋HD代表取締役副社長、北洋銀副頭取を経て12年4月から頭取、18年から会長、21年4月から非常勤顧問。69歳。
ーー会長退任にあたって多くの感慨があるのでは。
石井 銀行員生活は46年になりますが、与えられたその時々の課題やテーマについて、愚直に全力投球で取り組んできたつもりです。今、振り返ると様々なことが思い出され、まさに頭の中を走馬灯のように駆け巡っています。
ーー北海道拓殖銀行(拓銀)に入行されたのはいつですか。
石井 1975年です。まだ規制金利の時代でした。札幌の琴似支店が振り出しで、東京支店に行き札幌に戻ってから仙台に行って、全銀協(一般社団法人全国銀行協会)の仕事をして、また札幌に戻ってという繰り返しでした。この間に、銀行業を取り巻く環境は、本当に大きく変わりました。
ーー拓銀の破綻と北洋銀行による営業譲受という歴史的出来事の当事者でもありました。
石井 あの頃の私の一番の仕事は、店舗の統廃合でした。北洋銀の営業譲渡の前は、拓銀で店舗縮小の責任者をしており、北洋銀に入ってからも店舗が重複していましたから、旧拓銀時代を含めて店舗統廃合の仕事を5年近くやりました。銀行にとって店舗配置は重要な要素なので、当時の経営にとっても大きな課題だったのではないかと思います。同じ店舗を長く利用してくれたお客さまもおりましたし、サービス低下や店名が変わったりすることでの負担をなるべくかけないように、引き続き利用してもらえるように取り組んだことが、一番大きな思い出として残っています。
ーー旧日銀出身頭取が続いた中で、初のプロパー頭取になられたことは大きな変化でした。頭取時代に成し遂げたこと、あるいは道半ばだったことは何でしょう。
石井 私が2012年4月に頭取に就任した際、行内外に発信したことがあります。一つ目は、公的資金を2017年の100周年までに完済すること。ニつ目は問題解決型の付加価値の高いサービスをお客さまに提供すること。三つ目は創造的な金融集団をつくることでした。
一つ目の公的資金1千億円については、3年前倒しで14年に完済ができました。二つ目の付加価値の高いサービスの実現については、北海道共創パートナーズ(札幌市中央区)を日本人材機構(東京都中央区)と合弁で設立し、後に子会社化したことによって、人材の提供を含めて様々なソリューション機能を提供できるようになりました。地銀の中で、かなり高いレベルのサービスが提供できる銀行になったのではないかと思います。
もう一つ頭取時代に取り組んだのは、広域連携を目的とする「TSUBASAアライアンス」への参加でした。参加した16年3月当時は、千葉銀行(千葉市)をはじめとして6行でしたが、現在は沖縄から北海道まで10行になりました。様々なノウハウを共有することができる全国最大のアライアンスなので、取引先の販路拡大のお手伝いをするなど、高い付加価値のサービスという点では大きな力になっていると思います。最後の創造的な金融集団をつくるという面については、安田光春頭取に引き継いで取り組んでもらっているところです。