ラルズ・松尾直人新社長インタビュー「数字で語る社風築く」「ロピアとこう戦う」「横山会長の存在」

流通

 アークス(本社・札幌市中央区)グループの中核企業、ラルズ(同・同)の社長に松尾直人専務(61)が就任して間もなく5ヵ月、松尾カラーの輪郭が見えてきた。アークス横山清会長(89)の出身大学である北海道大学水産学部の後輩で、横山氏を「親父のような存在」と述べ、「今でも怖い」と話す。ラルズ成長の軌跡を、現場で体感してきた松尾新社長には、ラルズの強みと弱みが見えている。弱みをどう克服し、さらなる強みに変えていくのか、松尾新社長に聞いた。〈まつお・なおと〉1963年1月、大阪府茨木市出身、1990年9月ラルズ入社。2012年5月執行役員第4商品部GM、2013年5月執行役員生鮮食品グループ担当、2014年5月取締役生鮮食品グループ担当兼第4商品部GM兼ロジスティクスグループ担当、2016年5月常務取締役生鮮食品グループ担当兼ロジスティクスグループ担当、2021年5月専務取締役商品統括部担当兼ロジスティクスグループ担当兼オンラインショッププロジェクト担当、2024年5月代表取締役社長・COO兼ロジスティクスグループ担当。1970年に開催された大阪万博の会場が茨木市の実家から近かったため、小学生時代には、10回近くも自転車で通ったという科学好きな面も。

 ーー北海道大学水産学部を卒業して、イトーヨーカ堂に入社されました。なぜ、流通業に行こうと。

 松尾 水産学部では、乗船実習をしている間に、就職が決まっていきます。先生(教授)が水産系企業の就職先を紹介するのが、慣例になっていました。私は、自分で決めたかった。

 ーー水産学部からスーパーに入るのは異色ですね。

 松尾 最初は、商社に就職したいと思っていましたが、水産枠がないところが多かった。そんな時、スーパーのバイヤーは、商社マンを相手に丁々発止の仕事をしていると聞いて、スーパーは面白そうだと決めました。

 ーーイトーヨーカ堂では、どんな部門にいたのですか。

 松尾 都内の店舗の水産売り場に配属されました。しかし、大学時代の教授や同期から「バイヤーになると言っていたのに、まだ店舗にいるのか」と何度も言われたこともあり、色々と悩みました。大企業の歯車になるか、小さな会社に入って、大きくしていくかなど。そんな時に、先輩から、「同期に横山という男がいる」と聞き、会いに行って入社を決めました。1990年9月、27歳の時でした。

 ーーラルズ入社以降は、どんな部門を担当したのですか。

 松尾 店舗の水産現場を2年、バイヤーを7年、「ビッグハウス大麻店」(江別市、現スーパーアークス大麻店)の店長を1年務めてから水産のGM(ゼネラルマネジャー=部長職)を5年、その後、生鮮の統括本部長などを務めました。大半を商品部で過ごしました。

 ーー1990年頃は、ラルズ成長の原動力となった斉藤(弘氏・元社長)さんや守屋(澄夫氏・元社長)たちがいた頃ですね。

 松尾 守屋さんが生鮮のGM、かつて道東ラルズの社長を務めていた阿部(勝美氏、元取締役、ライフポート元社長)さんが一般食品のGMで、店舗運営は斉藤さんでした。正直に言うと、ラルズの活気やエネルギッシュさに、最初は、少し戸惑いを覚えたことも事実です。現場はとにかく売ることに必死で、スーパーの理論や論理とは異なる(違う)のではないか、と感じる場面もよくありました。当時は、北雄ラッキーさんがスーパーの中ではトップで、札幌フードセンターさん(現イオン北海道)も当社よりも売り上げが高かった。当社が、衣料との複合店を出し始めた頃で、「北野店」(札幌市清田区)や「里塚店」(同)、「発寒店」(札幌市西区)、「宮の沢店」(同)と続いて出店した頃でした。

 ーーラルズの成長とアークスの誕生など、大きくなる過程をつぶさに経験された。

 松尾 そうですね、小さい会社が、大きくなる過程を思う存分味あわせてもらいました。私は、道東ラルズ(現道東アークス)の立ち上げの時に、単身で北見に行きました。初めて地方に出るので、仕入れ先はどうするか、札幌からどれくらい商品を入れたらよいか、北見に配送拠点を持つべきかなど、手探りでした。それをみんなで話し合って、一つずつ解決していきました。道北アークスの前身の一社である道北ラルズや道南ラルズ、吸収したホームストアの立ち上げにも携わりました。

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