札幌を中心に「卸売スーパー」を7店舗展開している津司(本社・札幌市手稲区)の新社長に、5月1日付で津司達也専務(42)が昇格した。実質的な創業者である実父の津司耕太郎社長(72)は会長に就任、世代交代を実行した。食品スーパー業界は、コロナ禍3年目を迎えて売れ筋商品が変化しているほか、商品の値上げラッシュに翻弄され、難しい舵取りに迫られている。津司達也新社長に、「卸売スーパー」の今後の展開について聞いた。(写真は、インタビューに答える津司達也新社長)
ーー今の消費環境をどう見ていますか。
津司 買い控えの傾向が出ています。メーカーの話でも、モノが動いていないそうです。当社は、ある程度値上げを抑えながら販売しているので、売り上げは伸びています。給料が現状維持で来ていることから見れば、消費者がスーパーで使える金額は決まっており、その枠内で買えるものを買っているようです。
昨年は油関連商品が値上がりしましたが、今年はほぼ全部です。同じ金額で買おうとすれば、買い物に工夫をしなければ対応できないでしょう。当社は、お客さまに喜んでもらえるものを安く売りたいと常々考えています。生鮮も品質の良いものを低価格を売りたいのですが、モノ自体が少なくなっており、なかなか厳しい。野菜は、高値で安定していますが、価格が下がる場合もあります。しかし、肉とか魚はまったく価格が下がらない状況。肉は卸の間で取り合いになっており、水産も基本的に物量が足りていないようです。
ーー出身は、どちらですか。
津司 美唄で生まれ、札幌で育ちました。仁木町出身の祖父が、札幌に出てきて八百屋を始め、父が手伝うようになりましたが、八百屋では商売が難しくなると考え、1970年頃から徐々にスーパーに転換していきました。小学校から帰ってきたある日、八百屋のはずなのに魚や肉が並べてあって、ポテトチップスもありました。「えっ、うちって何屋さんなんだ」と子ども心に思ったことを覚えています。そうこうしているうちに、店舗を建て替えてスーパーになりました。八百屋の息子として育っていましたが、途中からスーパーの息子になりました(笑)。
ーー入社のきっかけは。
津司 北区の北陵高校を卒業して千歳科学技術大学に入学、光関連技術を学びました。大学を卒業してから1年間、富山のタッチパネルの製造会社で品質管理の仕事をしました。その頃、父は50歳くらいでしたが、胃がんを患って弱気になっていたようです。それで「戻ってこい」と。23歳で戻り、働くようになった頃の印象は、「なんで、こんな荒くれ者ばかりが働いているのだろう」と、違和感が拭えませんでした。仕事は一から始めて、同年代の先輩たちから指示を受けながらやりましたが、全然身が入らなかった。2~3年間は、ずっと怒られてばかりでした。
仕事に身が入るようになったきっかけは、旧ポスフール手稲店跡への出店でした。広さは約1000坪。当社はそんなに大きな店舗を運営したことがなかった。その時に、父から「バイヤーをやってみろ」と言われました。酒と飲料の担当になったのですが、右も左も分からず、「どうしたらいいのか?」と聞いても、「自分で考えろ」と。そんなスタートでしたが、試行錯誤で仕入れをしていくうちに、毎回交渉するのが面倒になり、買い方を変えてみたらどうだろうと思いました。当時の飲料は、年に2回、お盆前の夏場と年末にピークがありました。メーカーも卸も、その時には数量を売りたいので、安い値段を出します。しかし、それ以外の仕入れの時には値段を引いてくれません。大手はどうか知りませんが、当社の規模では全然値段を引いてもらえなかった。毎回交渉するのが面倒だったので、値段を引いてくれる2回のピーク時に、まとめて3ヵ月分や4ヵ月分仕入れるようにしました。
それができたのは、店舗が広くて在庫を置く余裕があったからです。そうしたやり方で仕入れて、常時安く販売したらよく売れました。そうすると、メーカーや卸も売れていることを知って、もう少し仕入れ量を増やしてほしいと言ってくるようになりました。毎回交渉しなくても、安い値段でメーカーや卸が売ってくれるようになったのです。メーカーや卸の担当者にメリットがあれば、値段を出してくれることを実感しました。