――3代目から影響を受けたそうですね。
若山 3代目は函館の発展に貢献した経営者でした。五稜郭跡を利用した市民創作の野外劇の立ち上げにも関わるなど、文化面でも函館を応援した人です。3代目の苦労は、並大抵ではなかったと思います。2代目の急死で急遽、大学をやめて家業を継ぎ、戻ったら戻ったで、番頭に逃げられたりしたそうです。徴兵されて戦争に行き、昭和18年頃にいったん戻ってきたら、「飲食店はアメリカの利敵行為だ」と警察署から営業を許されなかったこともあったと聞いています。その時、祖父は警察署長に「警察官の帽子や制服も西洋文化だ。和服を着て仕事をしなさい」と直談判、営業を許されました。ただ、店の若手はみんな戦争に行っていたので、家族で店を切り盛りしたようです。
戦後も、五島軒はアメリカ軍の南北海道司令部として接収されました。祖父とコックたちは、司令部職員たちの毎日の食事を作りつつ、別の場所に仮店舗を出して配達などでしのいだこともあります。昭和25年までそうした状況が続きました。
――倒産の危機が何度もあった。
若山 明治から昭和初期まで、函館はたびたび大火に見舞われています。五島軒も4回も焼けました。明治に2回、大正時代に1回ですが、昭和9年のひどい大火の時には、全部燃えてしまいました。3代目はよく立て直したなと思います。おそらく火事になるたびに助けてくれた人たちがいたからでしょう。
私は昨年、社長就任に際して企業理念をつくりましたが、そこには歴史に感謝する思いを込めました。143年続いているのは、生かされているからこそです。「これまでの歴史に感謝し、函館の地で100年続く仕事をしよう」とうたいました。
――さきほど、コロナ禍で内部改革を進めたと言われましたが、コロナ禍の教訓を整理するとどうなりますか。
若山 状況が変化した時に、その変化に対応できるかどうかだと思います。コロナ禍になっても、いつかインバウンドは戻ってくる、国内観光客も戻ってくると、じっとしていた企業もありました。一方で、私たちのように、もがき続けた企業もありました。私たちは、確固たる信念があったわけではないですが、やれることはなんでもやろうと動きました。
――食品製造の牽引役になったものは何でしょうか。
若山 特段、画期的な新商品が売れたということではなく、既存商品を伸ばしていったのですが、好調だったのはアップルパイ。以前は、直径18㎝のホールケーキとして売っていましたが、家庭で食べる量も減っているので、3年ほど前に8カットにして、4個ずつを個包装して売るようにしました。「アップルパイ4カット」という企画商品ですが、3年を経て需要が伸びてきました。北海道フェアなどに向けて卸、百貨店での引き合いも増えました。コロナ禍の巣ごもり需要の影響も受けて大きく伸びました。
もう一つ、エクレアも売り上げが伸びました。シュー皮にチョコレートのカスタードクリームが入っているもので、ある北海道の企業から製造を承継して3個500円で売っていますが、すごく売れています。この二つの商品が牽引しました。コロナ禍で、少しアッパーなものを買おうという傾向にもうまくマッチしました。
――飲食と食品製造の金額ベースでの比率はどのくらいですか。
若山 コロナ前でも食品製造は75%を占めていましたが、今は80%を超えました。年商は約12億です。
――今後も食品製造の高い伸びが見込めますか。
若山 食品製造のうち、先ほどの菓子部門がコロナ禍で好調に伸びています。以前は年間約2億円の売り上げでしたが、今は3億円を超えています。今後も順調に伸びていくと考えています。食品製造の課題は、レトルトカレーの商品政策です。レトルトカレーの売り上げは、10年前から年間5億円でずっと変わりがない。ある意味で高止まりしていると言えますが、限界がきているという見方もできます。
商品数は30種類もあります。最初は3種類しかありませんでしたが、目先を変えた商品を増やしていったら、こんなに増えてしまった。お客さまも、これだけの種類があったら迷うのではないかと思います。そこで、近いうちに半分の15種類ほどに減らそうと考えています。そうするとお客さまも、選びやすくなります。