創業143年の老舗レストラン、五島軒(本社・函館市末広町4番5号)は、昨年8月に就任した5代目社長、若山豪氏のもとで次の100年に向けた改革を進めている。コロナ禍で苦境にあるレストラン飲食部門の立て直しを図る一方、巣ごもり需要で伸びた食品製造部門の強化拡充がポイントだ。2022年7月には、新たに同社のルーツでもあるパン事業に進出、五島軒のストーリーを生かした事業構築にも意欲的に取り組んでいる。若山社長は、守るべきものをどう守り、変えるべきものをどう変えようとしているのか、インタビューした。〈わかやま・ごう〉1983年函館市生まれ、2011年五島軒入社。2016年製造企画開発室長、2018年取締役事業部長、2019年専務、2021年8月社長就任。
――2021年8月に社長に就任されて1年が経ちました。まさにコロナの渦中でのスタートになりました。
若山 専務の頃から経営判断をすることがあったので、社長に就任したからといって戸惑うようなことはありませんでした。専務時代と同じようなことをしているので、特に(心境が)変わるようなこともありません。昨年から今年にかけては、コロナの影響もある程度分かってきたので、当社においては業務の効率化や人材再配置を積極的に進め、経営を筋肉質にすることに腐心しました。コロナがあったことによって、経営体としてはかなり引き締まったと認識しています。
――内部の効率化に力を注いだ1年だったと。
若山 当社の事業は、食品製造と飲食の大きく二つに分かれていますが、コロナ禍でレトルトカレーやケーキ、洋菓子など食品製造部門が好調でした。利用客が大きく減少した飲食部門から製造部門に配置換えをするなどして、対応しました。レストランでお皿を運んだりしていた従業員が、アップルパイを焼くようになったりしました。コロナ禍を経験したことで、従業員の意識もかなり変わったと思います。平時にはなかなかできなかったことが、コロナ禍で可能になった面もあります。会社全体に危機感があったから、そうしたことができたのだと思います。
――若山社長は39歳ということですが、代々そのくらいの年齢で社長交代があるのでしょうか。
若山 実父の現会長も40歳くらいで社長を継いでいますが、戦略的にこの年代でということではありません。たまたまタイミングがそうだったということです。当社では、2代目から3代目に経営が移る時がイレギュラーでした。3代目は私の祖父ですが、法政大学の学生だった頃、社長に就任しています。2代目は函館から東京に行って、祖父に3代目として跡を継ぐのかどうか気持ちを確かめたそうです。祖父が、「学業を続けたい」と話したところ、2代目は「お前の人生を歩め」と言って、函館に戻ろうとしました。ところが、帰る途中に倒れ亡くなりました。祖父は学業を諦めて会社を継ぎましたが、あまりに急だったため代表者の登記変更が間に合わず、そのまま2代目の徳次郎を襲名しました。
――社長ご自身の経歴は。
若山 私は中学までは函館で、高校は札幌光星高校に進みました。カトリック系のミッション・スクールで、私にとってはすごく良い学校でした。大学は、東洋大学に進学しました。当時、反抗期だったんでしょうね、経済学部には行きたくなかった。哲学を学ぼうと東洋大学に決めました。
――就職はどちらに。
若山 哲学科に入ったものの、卒業する頃になると家業を継がなければならないと思うようになりました。家業は中小企業だったので、大企業での働き方とはどういうものかを知りたいと思い、大学で紹介された港湾運送などの上組(本社・神戸市中央区)の面接を受け、採用されました。財務のことや資金の動き、決済の方法など、上組は一部上場の大きな会社だったので、かなり勉強になりました。
――家業を継ぐ決断をしたきっかけは、何だったのですか。
若山 2010年5月に3代目の祖父が95歳で亡くなりましたが、その1年ほど前に祖父を見舞ったことがあります。寝たきりになっていて、病院では目を覚まさなかったのですが、私が面会に行くと、祖父の目がぱっと開いたのです。ベッドで私の顔を見上げながら、にこっと笑ってガッツポーズまでしました。そのことがすごく胸に残って、個人的にはバトンを渡されたのかなという思いがありました。その時、函館に戻ろうと決め、祖父が亡くなった翌年の2011年に戻りました。