北海道銀行 堰八義博前会長インタビュー「波乱の金融危機をこう乗り越えた」

金融

 ーー2004年には北陸銀行と経営統合しました。

 堰八 頭取在任中の最大の出来事が、北陸銀行との経営統合による持ち株会社「ほくほくフィナンシャルグループ」の設立です。地銀の経営統合の先駆けでしたし、飛び地の統合だったので他に例を見ないものでした。当行にとっても、新しい時代の幕開けであり、「必ず成功させるぞ」と心に誓い、ことに当たりました。

 ーー極東ロシアとの経済交流も始まりました。

 堰八 北海道に最も近い外国である極東ロシアとの経済交流は、北海道の将来にとって意義のあることと考えて取り組みを開始しました。2009年にユジノサハリンスク、14年にはウラジオストクに駐在員事務所を開設、さらに15年には地域商社「北海道総合商事」を設立、極東ロシアと道内企業の経済交流のサポート体制を確立しました。これらのことから日本国内で、最も極東ロシアに強い銀行との評価を得ることができました。
 この間、13年 4月には、安倍晋三首相(当時)のロシア公式訪問時の日露経済交流ミッションに参加、当行とアムール州との間での蕎麦の試験栽培プロジェクトに係る農業協力の覚書を交わしました。この覚書のサインをしたのは、クレムリンです。安倍・プーチン両首脳の立ち会いで行ったのですが、緊張の極致で忘れられない思い出になっています。

 ーーカーリングチームの結成もエポックでした。

 堰八 行内の一体感醸成を目的に、11年から女子カーリングチーム「北海道銀行フォルティウス」のサポートを始めました。チーム立ち上げからわずか2年余りでソチオリンピックに出場を果たしてくれたことなども、印象深い出来事でした。
 会長就任6年間のうち、最初の4年間は、北海道観光振興機構の会長を仰せつかりました。18年に発生した「北海道胆振東部地震」では、ブラックアウトにより道内観光関連が大きなダメージを受けましたが、機構の会長として「ふっこう割」の発行など、観光の需要復活のために奔走したことが思い出されます。

 ーー頭取、会長時代にやれなかったことや積み残したこと、嬉しかったことは何でしょうか。

 堰八 銀行の経営は継続性があるので、積み残した課題と認識していることは特にありませんが、敢えて言えば、自己資本増強のため発行した優先株について、やっと10%ずつ2回償却を始めて返済の道筋も付き始めたものの頭取、会長就任期間内に全額償却できなかったことは、やや残念な気がします。うれしかった思い出は、北陸銀行と協調し、2009年に公的資金をグループで全額完済したこと。役職員との慰労会で「乾杯!」の音頭の代わりに、「完済!」で盛り上がりました。

 ーー90年代後半の拓銀破綻や08年のリーマンショックを経験されたわけですが、どのような教訓を得たのでしょう。

 堰八 国内の金融危機は、80年代半ばの円高不況の対策として、86年から87年にかけて5回実施された日銀による緩和がきっかけとなりました。土地や株への投資マネーが大量に供給され、いわゆるバブル景気を招くこととなりました。90年になり金融引き締めに入り、バブルが弾けて銀行は大量の不良債権を抱えることになった。 この要因は、銀行が右肩上がりの土地を担保に、過剰な融資に走ったことにあります。リーマンショックは、アメリカの大手金融グループであるリーマンブラザーズ社がサブプライムローン問題を発端として経営破綻し、その影響が全世界のマーケットに波及、株価や社債などの大暴落を招いたものです。
 この2つの危機は、原因こそ異なるものの、銀行のリスク管理の在り方に大きな問題があったという面では共通しています。銀行にとって「預金」は資金調達、「融資」や「有価証券投資」は運用です。運用によっていかに収益を上げるかが経営の大きなテーマですが、融資先の業況は常に変化すること、有価証券は相場により価格が変化することを常に考えておかねばなりません。

 金融危機やリーマンショックを教訓とし、銀行は、「定量的」、「定性的」に資産を分析する「リスク管理手法」を徹底的に導入し、自身の体力に見合った運用をコントロールするオペレーションを心掛けるようになりました。体力というのは、自己資本比率のことです。
 地域金融機関は、地域の産業と企業を支える役割があることを改めて認識したのも教訓と言えるでしょう。人口減少により、国内の市場縮小が進む中、企業の持続性をお互いに議論しながら、問題は何かを共有して地域の企業をしっかり支えて育てていく経営姿勢に変わっていったと思います。

1 2 3 4

関連記事

SUPPORTER

SUPPORTER