ほくほくフィナンシャルグループ(FG、本社・富山市)の子会社、北海道銀行(本店・札幌市中央区)の堰八義博会長(66)が6月末で退任、特別顧問に退いた。北海道拓殖銀行との合併交渉、合併破談を事務方トップとして経験。その後、道内取引先を中心とした優先株発行や北陸銀行(本店・富山市)との経営統合を経て、48歳の若さで頭取に就任。金融激動の時代のトップとして道銀、ほくほくFGを率いてきた。6年前には会長に就き、経済界活動に力を注ぎ、北海道経済の進むべき方向を示した。折しも今年は道銀設立70周年の節目の年。堰八氏に頭取、会長の在任18年間を振り返ってもらうとともに、ウィズコロナ、アフターコロナの道銀、そして北海道経済はどうあるべきか、インタビューした。〈せきはち・よしひろ〉…1955年5月生まれ、札幌市出身。旭丘高校、法政大学経営学部卒。1979年4月北海道銀行入行、97年4月経営企画部室長、98年7月経営企画部調査役、99年7月経営企画グループ調査役グループリーダー、2001年6月取締役執行役員、02年6月代表取締役執行役員、03年6月代表取締役頭取、15年6月代表取締役会長、21年6月特別顧問。16年6月から2期4年、公益社団法人北海道観光振興機構会長を務めた。
ーー会長退任を決意した理由を聞かせてください。
堰八 企業は、新陳代謝を図ることが必要です。15年6月に会長になってから、銀行実務は笹原晶博頭取(64)が中心的に行っていました。笹原頭取は今年で在任6年になり、70周年と言うこともあってそろそろ若手にバトンタッチをという意向がありました。私もそろそろ身を引きたいと思っていたので、考えが一致、兼間祐二君(取締役常務執行役員企画管理部門長、57)に後を任せようと自然に決まりました。兼間君は、私が頭取時代から将来の頭取候補の一人と考えていました。笹原さんと次の世代のイメージ合わせを以前から行っていましたが、私と笹原さんの考え方は一緒だった。
ーー堰八さんが頭取に就いたのは48歳の時でした。
堰八 私は1979年に入行して42年になりますが、24年目の48歳で頭取を拝命しました。今思えば、大それたことをよく引き受けたなと思います。あの時は若かったので、一途な思いで引き受けたのでしょう。私は、本部勤務が長かったので対外的に名前が知られていなかった。頭取に就いてから「堰八って誰?」、「名前を初めて聞いた」という声がお客さまを中心にたくさん寄せられました。それで、お客さまに少しでも知っていただくために、全道の支店を必死になって回りました。
日中は、お客さまを訪問、夕方からは支店の社員食堂で缶ビールに乾きもの程度で、職員との対話に努めました。今思えば、若くて体力があったからできたことだったと思います。
ーー道銀は、1999年に取引先を中心に優先株を発行、537億円を調達しました。
堰八 自己資本比率が4%を切り、全国地方銀行協会の中で、最初に早期是正措置を受けたのが当行でした。99年3月のことです。当時、事務方として優先株を発行して自己資本比率を高める旗振り役をしていました。北海道拓殖銀行が破綻してから2年後だったので、道内企業の業績もあまり良くなかった時期です。できれば200億円を集めたいと思っていたのですが、それを大きく上回る537億円を調達することができました。東京では、せいぜい100億円集まればいい方では、という声もあったほどです。
537億円が集まった時は、涙が出るくらいというか、本当に涙が出てきました。それくらいありがたかったし、うれしかった。約2000社が引き受けてくれたのです。この結果、自己資本比率は7%近くまで回復しました。
7月に増資を完了して中間決算では自己資本比率が回復すると思っていたら、当時の金融担当大臣が「国内基準行も国際基準の自己資本比率8%以上が望ましい」と発言したのです。このため、8%に達していない銀行が普通株増資をどんどんやり始めました。
中間決算が終わってみたら、当行より自己資本比率が低いのは、せいぜい3~4行しかなかった。これではマーケットの評価が得られないということで、公的資金を入れて自己資本を高めようということになりました。
公的資金を入れないために取引先などに優先株の引き受けをお願いしていたのに、結局公的資金を入れることになりました。騙し討ちをしたような形に見えるかもしれませんが、自己資本比率8%以上が求められるようなことが起きるとは、全然思っていなかった。それで、20年3月の本決算の前に、450億3000万円の公的資金を入れ、自己資本比率8%台を回復しました。