札幌すすきのにあるJRAの場外馬券場「ウインズ札幌」の施設を所有する札幌中央アーバン元社長、舞田博二氏の葬儀が27日、札幌市内の中央霊堂で行われた。舞田氏は、狸小路商店街にあったサンデパート(現在はドン・キホーテが入店)の事務局長として地元商店街を束ね、札幌の地下街を実現した立役者として知られる。26日、くも膜下出血で死去、88歳だった。(写真は、舞田相談役の葬儀で挨拶する札幌中央アーバン光地勇一社長=左端と親族)
葬儀は天理教の「みたまうつし、みたましずめの儀」として行われ、約250人が参列した。
舞田氏は、大正15年3月8日、砂川市生まれ。昭和20年3月、札幌光星商業学校を卒業後、岩見沢青年師範学校(現北海道教育大岩見沢分校)に進学。しかし、戦況悪化により入学後2ヵ月で旭川第七師団入隊、樺太大泊に配属。1ヵ月半後には終戦を迎えたものの、ソ連の捕虜となりハバロフスク近くで2年間の収容生活。昭和23年に復員し砂川に戻り同年4月砂川市役所入り。教育委員会社会教育係長を務めた後、札幌のサンデパート事務局長になった。
舞田氏は、サンデパート事務局長時代に建設が決まっていた札幌の地下鉄工事に合わせて地下街を作らなければ実現の機会を逃すと見て、狸小路商店街振興組合の専務理事とともに地元商店街を束ね、二人三脚で建設省に通い厳しい行政指導をクリアしながら実現に道を開いた。
その後、札幌地下街を管理運営する第三セクターの札幌都市開発公社に移り、当時の讃良博社長の下で取締役業務部長の役職に就いた。昭和52年8月、JRA場外馬券場の所有運営を行う札幌中央競馬場外センターが設立された時に讃良社長とともに転籍。2人が中心になり中山競馬場の光ファイバーを使ったクリスタルホールをモデルにした全国ウインズに先駆けてエクセルフロアを開設した。
同社は札幌中央アーバンに社名変更され、讃良社長の後を継いで平成9年社長に就任、同12年から相談役。
葬儀委員長の光地勇一・札幌中央アーバン社長は、「私が舞田相談役に初めて会ったのは50年程前。地下街を作るには地下鉄建設の機会を逃しては不可能という強い信念のもと、強力なリーダーシップを発揮して全力投球していた姿が思い出される。私は、舞田相談役と狸小路商店街の専務理事の2人こそ本当の意味で地下街実現の立役者だったと思っている」と挨拶した。