龍馬の生き方や考えに共鳴する人たちが集まった北海道龍馬会(原子修会長)の記念講演会が11日、札幌すみれホテルで行われた。記念講演は定期総会後に毎年行われているもので、今年は勝海舟の玄孫、高山みな子さんが海舟日記から見た海舟と龍馬の親交について約150人を前に講演した。(写真は講演する勝海舟の玄孫、高山みな子さんとノンフィクション作家の合田一道さん)

 

高山さんは、子供のころに祖母や曾祖母が海舟と龍馬について語っていたことをおぼろげに記憶しているとし、祖母の話では海舟は『怖いおじいさんだった』ようで、海舟が出かけて家に帰ってくると家族全員が玄関で頭を下げて出迎えたために『いつもおじいさんの足しか見ていなかった』と語っていたことを紹介。また、曾祖母は『龍馬さんに肩車で遊んでもらった』と後々まで語っていたという。

 

海舟と龍馬は同じ羊年で海舟は一回り上。ペリーの黒船が来航、海舟は幕府に意見書を提出したことをきっかけに幕府に就職し、神奈川の浜川砲台建設に取り掛かる。完成後に龍馬は土佐藩の用命で一時そこに詰めたことがあったという。 数年後に龍馬は土佐勤王党に入るが翌年脱藩、そのころから龍馬は海舟の屋敷に出入りし始めた。

 

高山さんは、「軍艦奉行になっていた海舟は、そのころの日記に既に『龍馬子』と書いている。『子』とは今で言う『さん、くん』のことで親しみを込めた表現。一回り下の龍馬と気が合っていたことを示す一説」と語った。

 

日記では、順動丸で上方から江戸に帰ってくる航海中に嵐に遭って下田で嵐が過ぎ去るのを待っていたときに、偶然や土佐藩主の山内容堂に会い、龍馬脱藩の許しを乞う場面も出てくる。海舟が飲めない酒を容堂から進められながら、龍馬の脱藩に許しを乞うあたり、2人の関係は師弟より同士という絆で結ばれていたと、高山さんは言う。

 

海舟日記には、海舟が長崎へ行きフランス軍が下関を攻撃するのを延期してもらう交渉に出向く場面も出てくる。   「長崎行きには龍馬も連れて行っているが、当時の長崎は日本の最先端を行く経済・文化のマチ。海舟はそれを龍馬に見せたかったのだろう。交渉ごとの合い間には、20㎝も身長が違う2人は相撲を取ったりするシーンも出てくる」と高山さん。その姿を想像するだけでも2人の関係がわかる。

 

江戸に戻るときに再び嵐に遭って下田で停泊しているとき、龍馬は海舟に蝦夷地へ行く覚悟を熱っぽく語る場面も出てくる。そのほかにも、薩長同盟や大政奉還、龍馬が暗殺されたことなどが日記に綴られており、「海舟は、龍馬のことをとても気にかけていたことがわかる。ペリー来航で2人の人生は大きく変わり、共に過ごして心が通じ合う関係になった。2人の考え方は良く似ていたのではないか」と高山さんは深く温かい絆で結ばれていたことを強調していた。

 

記念講演では、北海道龍馬会会長代行でノンフィクション作家の合田一道さんによる「松浦武四郎の資料に見る龍馬の蝦夷地開拓」と題した講演も行われた。

 

合田さんは、「今から47年前、私が北海道新聞の広尾支局長になったときに町長から紹介されたのが坂本直行さん。直行さんの家には明治維新から104年経ったころだったが、海舟や西郷の書があった」とエピソードも紹介した。

北海道龍馬会は、http://www.hokkaidoryoma.com

 

 

 

 

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