食品スーパーなど商業店舗の企画・設計コンサルを手がけるディール企画社長、野呂幸司氏(72)が1月27日、市立札幌大通高等学校で講演、約100人の生徒を前に自身の体験から命の大切さや生きることの意味を語りかけた。1時間10分の講演に集まった10代から70代の様々な年代の生徒らはメモを取りながら熱心に聞き入っていた。(写真は生徒を前に講演する野呂氏)
野呂氏は樺太・豊原生まれで生家は馬具屋を営んでいたが、終戦によって函館へ引き揚げてきた。大泊から小樽に向かう最後の引き揚げ船の出港に間に合わず、港を離れ遠くに見える引き揚げ船をただ見守るしかなかったという。
それから2年間、野呂氏は豊原の生家でロシア人家族との共同生活を送ったが、そのころの交流が現在も続いていることを紹介した。
体の小さかった野呂氏は体を鍛えるために函館の高校時代から山岳部に所属し、道教育大函館分校へ進学。山岳部リーダーとして冬の旭岳登頂を目指したが遭難。11人のうち野呂氏1人が生還した。しかし、野呂氏の両足は凍傷で壊疽。両足首から切断せざるを得なかった。
函館の病院で手術を終え、ベッドの上で目が覚めると両足の感覚が残っている。「何だ、足はあるじゃないか」とベッドから起き上がって立とうとした瞬間、床におでこを激しくぶつけてしまった。その時の気持ちを野呂氏はこう述懐した。
「これが現実なんだと思った。後はない、前を見て生きていくしかない」
同じパーティで唯一人引き残った負い目を強く感じながらも、亡くなった仲間たちの分も一生懸命に生きることが供養になると心の整理が付いた瞬間だった。
むしろ、障害を持つことよって、体の不自由な人たちの気持ちが良く分かるようになり、それまで関心を持たなかった自分を恥じたという。いろんな人たちがいるから世の中は素晴らしい――成長した自分の心を野呂氏は実感した。
義足に足を馴染ませるために、足をビール瓶で毎日叩き足の皮膚を強くしようとしたことや教員試験では健常者ではないとして受験できないことに抗議、体力試験の会場に出かけていき跳ぶことも運動することもできることを見せて合格した話も披露した。
教員時代には、函館地区の北教組書記次長として学力テストに反対、ストライキを主導したが組合員たちが早々と帰宅して自分たちの私用を優先することに限界を感じて、教職を離れることを決意したという。
その後、明治生命保険のセールスマンになったが、来る日も来る日も契約が取れない。そんなある日、母親が作ってくれたおにぎりを公園でほおばりながら、じっと雲を見つめていた。〈なぜ俺はこんなことをしているんだろう〉後悔が胸を染める。教職の世界と生保セールスの仕事は180度の違いがあった。父兄から尊敬の眼で見られていた先生の仕事、玄関にも入れてもらえないセールス。
じっとそんなことを考えていると、今度は突然こんな思いが沸きあがってきた―〈雲はどんどんと形を変えてひとつにとどまらない。そうか、前に進むしかないんだ。ここで頑張るしかないんだ〉
それからは、逃げずに真正面から体当たりで生保セールスに取り組み、訪問した人に葉書を何枚も何枚も書き続けた。セールスは自分を売る仕事―野呂氏は達観した。すると営業成績は見る見る上がり全国トップクラスの成績を収めることも出来た。
その後、紋別でフッシュミールのプラントを作る会社に引き抜かれたが、1977年の200カイリ制限で不渡りを掴まされて会社を畳まざるを得なかったこと、ディール企画を設立して、ラルズやコープさっぽろなどの店舗の設計や企画業務を始め現在に至っていることなどを紹介した。
野呂氏は「一回きりの人生をいかに乗り越えていくかが大切。人間は環境に左右されるから良い影響を与えてくれる人が回りに沢山いる環境はとても大事」と締めくくった。
市立札幌大通高校は、全日制や定時制にこだわらない社会に開かれた高校。野呂氏の講演は3・4年次の学生を対象に『いのちの学習』という年間テーマの一環として行われた。