どうきゆう中西泰司代表取締役インタビュー「コロナ下、外食事業の生き残り戦略を話そう」

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 ーー企業の文化づくりに賭ける強い思いはどこから来るのですか。過去の社会人としての経験があるのでしょうか。

 中西 私は室蘭工業高校出身で、高校時代は自転車競技の選手でインターハイにも出場、プロの競輪選手になりたかったのですが叶いませんでした。これまでの経歴を振り返ると、役職が自分を育ててくれたと思います。
 高校を出て日鉄セメントに就職した後、住友石炭鉱業の食品スーパー事業である『ジョイ』に入り10年間勤めました。そこでは、精肉のマーチャンダイザーという特殊な仕事の担当でした。バイヤーは店舗で売れているものしか仕入れないのが普通です。特別な商品を仕入れても店舗が売ってくれないと残ってしまいますから安全策を取ろうとするのです。そういう慣例を破ろうと、マーチャンダイザーという立場で商品部とは別枠で精肉の仕入れをしました。でも、特別な商品を見つけてきても店舗では販売に協力してくれない。本部が勝手に持ってきたものには抵抗感があるからです。私は実際にマネキン(店頭で販売促進をする販売員)をして売りました。『これだけの数が売れるだろう』と実際に示してから店舗の従業員にも動いてもらうようにしました。そうしたことをずっと続けてきたので、部下の教育もそういうことをヒントにしています。10年働いて『ジョイ』を辞め、『どうきゆう』に入ったのです。

 ーー転職の理由は何だったのですか。

 中西 このまま『ジョイ』に勤めていても、ある程度先が見えていたので、『もういいかな』と思ったからです。退職してからしばらく“プータロー”をしていたのですが、縁あってどうきゆうにアルバイトで入りました。時給430円、30歳の時です。
 当時のどうきゆうは古い体質が残っていて、流通を経験して30歳で自信を持って入ってきた私は、アルバイトから社員になり『こんな会社のやり方ではダメだ、やり方が違う』と改革を進めていきました。やがて社長との意見の食い違いが目立つようになり、いわば保守と革新の戦いのような状況が社内で続きましたが、最終的に私が社長を引き継ぐことになりました。

 給食事業で伸びてきた企業でしたが、給食事業の伸びは鈍化すると考え、外食事業で多店舗展開するため2000年に『牛角』のフランチャイズに加盟しました。前述したように給食事業は設備投資があまり掛かりませんから、金融機関の借り入れはそれほど必要ありません。しかし、外食事業は投資先行のため借入金が発生します。会計を理解していないと外食事業はできないと考え、会計について2年間学びました。
 そうして『牛角』事業を始めたのですが、当時、『牛角』は急速出店をしていたのでフランチャイズの本部がうまく機能していなかった。このため、『ドトール』のフランチャイズにも加盟して本部の勉強をした上で、『まいどおおきに食堂』のフランチャイズに加盟、北海道エリア本部の権利も買い、最高で21店舗まで増やしました。しかし、この業態も競合店が増えてきたので店舗を縮小、現在は4店舗の運営になっています。フランチャイズ店舗は今後少なくして、自前でチェーン店舗を作っていくことに転換しました。1952年創業で当社が1996年に承継した『玉藤』、1977年創業で2016年に当社が引き継いだ『チロリン村』でチェーン展開を強化しているのが、現状です。

 ーーコロナ禍で外食産業も厳しい経営を強いられています。

 中西 当社の従業員の今夏のボーナスは、前期比100%支給しました。昨年10月から今年3月までの業績が夏のボーナスに反映しますが、コロナ禍で業績がが良くなかったので、本来なら前年の7掛けくらいになるはずですが、前年夏と同額にしました。4~9月の下期業績が反映する冬のボーナスは、前年比120%支給にしました。売り上げは落ちていますが、人への投資をおろそかにしてはいけないと考えたからです。2年後、3年後に従業員たちの力で会社を伸ばすためには、ボーナスを増やしても怖くありません。こういうことが企業の文化をつくっていくものだと確信しています。

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