地場中堅食品スーパーとして高質化を打ち出し、地場大手スーパーとの対抗軸を探ろうとしている豊月(本部・苫小牧市)。芦別の菓子店から始まった豊月は、現社長の豊岡憲治氏(64)が食品スーパーへ転換し地歩を築いてきた。豊岡社長がスーパー展開を本格化させた草創期を振り返ってみる。(写真は豊岡憲治社長)
時代の変化を見据えた果敢な業態転換は、豊月の歴史を作ってきた。
憲治氏は、1945年10月樺太生まれ。実父は樺太の恵須取交通のバス運転手だった。芦別に引き揚げてから、両親が戦後の混乱の中、菓子店を始めた。母方の親戚は、芦別で料理屋を経営、炭鉱が殷賑を極めていたころには、旧財閥系の重役たちの接待場所として使われていたという。
芦別高から専修大商学部に進学、卒業後の就職は西友に決まっていた。しかし、両親が反対。そのころ実家の菓子店は一番弟子に引き継がれ、両親は戸板に野菜や雑貨を置いた戸板商売で成功を収めつつあり、スーパーの原型が形づくられていたころ。
「お前にスーパーを任せたい」
西友入社が目前に迫っていた憲治氏は、悩んだ末に両親の申し出を了承した。
西友入社を諦め、道内の卸会社だった古谷に入社。ここで、北雄ラッキーの前身である山の手ストアーや丸井今井の食品部門などへのセールスを3年間経験。
そのころ、芦別は炭鉱閉山が進みかつての賑わいが
失われていたため、憲治氏は札幌や苫小牧など、将来発展する土地を見定め、雪が少ない苫小牧を選んだ。樺太の引揚者の中で王子製紙の社員が多く苫小牧に引き揚げてきたことも、樺太に郷愁を感じていた憲治氏が苫小牧に決断するきっかけのひとつになっている。
憲治氏は古谷を辞め、スーパー出店の準備を始めた。1973年のころだった。
憲治氏が25歳のとき、同年11月にフードDの出発点となる豊岡ストアーが苫小牧市見山町にオープンする。義兄と2人で開店にこぎつけた。魚や野菜など生鮮品とグローサリー商品を置いたが、グローサリーは古谷で扱っていたために調達には苦労はなかったものの、生鮮品は初めて扱う。「魚には苦労した。なにせホッケの頭を取るのも初めてだったからね」と憲治氏は述懐する。
仕入れや販促を1人でこなし、年商40億円まで拡大していった。
やがて時代は転換点を迎える。憲治氏はいち早くディスカウント業態への転換を進めた。「覚えやすくて単純な店名」(憲治氏)ということで、「フードD」に決め、苫小牧を中心にフードD1からフードD7まで店舗をチェーン化していった。
「最初のうちは、日配品の価格が王子サービスセンターや道央市民生協の価格とあまりに違うものだから、王子や生協が問屋に圧力を掛けて『フードDには卸すな』ということもあった。豆腐などは恵庭から買っていたこともある。苫小牧の同業者や卸業者、メーカーからの抵抗は強かったね。それが止んだのは、我々がディスカウントの業態を確立してから。成功したら誰も文句を言わなくなった」(憲治氏)
2007年には、それまでのディスカウント一辺倒からクォリティにも力点を置く「Q&D(クォリティ&ディスカウント)」に修正、フードDの店名に新たな食彩館を付け足し、イメージを摺り足で変えていく戦略を導入。
そして、昨年9月、新たに「フードD LISTA店」を11店目として江別市大麻にオープンさせた。この店は、品質をさらに高めた高質スーパーがコンセプト。食品だけでなく店舗環境や従業員などの接客能力なども総合的に高質化していくスーパーの尖兵役を担う。
古き時代のマチのスーパーからディスカウントで成長基盤を確立し、クォリティ&ディスカウントで道央圏のシェアを高めてきた豊月は、いち早く時代を先取りする形で高質化に舵を切りつつある。
憲治氏の日常は、スーパーを始めた73年ころから変わっていない。
毎朝4時に起き、パンと卵焼きで朝食を済ませ市場には5時ころ到着。市場を見てから苫小牧の岸壁を1時間掛けて歩く。「釣りをしている人やフェリーが出入りしているので飽きないですよ」(憲治氏)。再び市場に行き午前6時半からのセリが臨む。昼はかけそば、夜に一杯のリズムは今も続いているという。
高質スーパーが根付くかどうか。事実上、フードDを一代で築き上げてきた憲治氏の五感が試されている。