コープさっぽろの元理事長、河村征治さんが1月10日、76歳で死去した。北大生協から札幌市民生協(後のコープさっぽろ)に移籍して文字通り現在のコープさっぽろの礎を築いてきたリーダーだった。しかし、事業の基盤を創りあげ、権力の頂点を極めた半生から一転、市井の人になることを余儀なくされた。75年の専務理事就任から解任される96年までの約20年と解任後から亡くなるまでの約20年、同じ20年の歳月と言ってもその流れ方は大きく違っていたことだろう。※蓋棺(がいかん)とは、人の評価は生前よりも棺の蓋をしてから定まるの意=蓋棺事定(ひつぎをおおいて こと定まる)から蓋棺録とした。(写真は、1994年2月1日の日本ユニセフ協会北海道支部創立総会=『コープさっぽろ30年の歩み』から)
一時代を築いた河村さんを偲び、ゆかりのある人たちに思い出や人となりについて語って貰う蓋棺録の3回目は、2007年からコープさっぽろ理事長を務める大見英明氏(57)。30歳代後半で河村さんの解任に遭遇した大見氏は、その後の日本生協連合会の下での厳しい再建の道程を実体験して、弱冠48歳でプロパー理事長に就任した。20歳の年齢差がある河村さんをどう見ていたのか。
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(写真は、コープさっぽろ大見英明理事長)
コープさっぼろは、札幌市民生協として1965年にスタートしたが、71年までに31店舗を出店して急速成長した。真鍋(康弘)さんが初代の専務理事の時代だったが、それによって資金ショートを起こしてしまいました。それを立て直してベースを作ったのは河村(征治)さんです。高度経済成長が重なり順調に事業も拡大、東北・北海道で一番大きな小売業になった。コープさっぽろの礎を作ったことは非常に大きかったと思う。私もそのころに採用され入協しました。
90年に入るとバブルが崩壊しましたが、河村さんは経済状況の変化を読み間違えました。バブル崩壊後も大型の店舗を次々に作っていったのです。旭川の「シーナ」は90年10月、札幌では91年4月の「ルーシー」、7月の「ソシア」、さらに「平岡店」をオープン、「ルミネ東光店」(旭川市)、「ノバ」(岩見沢市)などの巨額投資が続きました。
一方で90年代前半から業態を特化したニトリやユニクロのような専門店の全国チェーン展開が始まっていました。その中で品揃えなど中途半端なGMS(大規模スーパー)業態が競争力を失っていくのです。河村さんは、そういう変化に対応した軌道修正ができなかったため、結局、組合を敵にしてしまい、(組合が)河村さんを引きずりおろすことになったのです。
河村さんは、1970年代前半に日本の流通業の中で最も光っていた人物の1人でした。また、ユニセフ協会の北海道事務局をコープさっぽろが引き受けるなど、生活協同組合として相互扶助の外縁的広がりを作り、生協事業の可能性を広げた人物でもあります。その先駆性は、まさに北海道のフロンティアスピリットとも言えるものでした。
しかし、時代が大きく変わる時に自分が作ってきたものに対して立ち止り、スクラップにするような経営判断ができなかった。その結果、コープさっぽろの経営を危ない状況に導いてしまった。例え自分自身の否定になっても、時代が変化したときにはそれをやらざるを得ない。
現在、理事長を務める私が、河村さんから学ぶとすればまさにその点です。時代の変化を読んで、間違っていたら引き返す決断、自ら始末して撤退するという決断――。河村さんを反面教師として、傷口が小さいうちに引き返すという着実なステップをどう踏むか、分相応に実力に応じてしっかり足下を見る力が必要だということを学んだ。
私が入協した当時、河村さんは専務理事で、その数年後に私だけがどういうわけか7年間毎年仕事を変えられた。31歳で副部長になり、毎週日曜日に開かれていた50数人が集まる経営会議にも一番端っこに座って参加していました。そのころから河村さんのマネジメント手法を直接知るようになりました。当時、「ペガサスクラブ(渥美俊一氏の率いるチェーンストア研究団体)の本を全部読んだのか」と怒鳴られたこともあります。
組合が河村さんにノーを突きつけた時、私は反対派の1人でした。なぜ河村さんを退陣させることに反対だったかというと、河村さんさえ変わればこの組織も変われると思っていたからです。河村さんが方針を変更して、『申し訳なかった、もう一回やり直す』と言ってくれたらコープさっぽろは変わるかもしれないと当時は思っていたのです。
結果は、河村さんの解任ということになり、2代のプロパー理事長が続いた後、日本生協連合会の支援で再建を進めることになりました。
私が入協した82年は67人も採用された年で、現在でも30人以上が残っています。私たちは負の遺産を背負い、リストラをかいくぐって頑張ってきました。それだけに結束力は強い。
河村さんは、生協活動の広がりや国際的な協同組合の繋がりなど外に向かって広がっていくパワーを日本の生協運動の中で一番発揮した人だと思う。その点でも学ぶことは今でも多い。コープさっぽろの到達点を見据えて、何ができるのかを私も絶えず考えています。ファミリーマートと業務提携の締結に向けた合意もそこから導き出された判断なのです。
時間が流れ、記憶も薄れていきますが、解任された河村さんはその後の人生とどう折り合いをつけたのか――それを想うと私自身、心中穏やかではありません。河村さんもさぞ辛かっただろうなと思います。(談)
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(この項終わり。次回は元北海道生協連合会専務理事で北海道ユニセフ協会相談役の重原祐治さんです)