北洋銀行の横内龍三会長は、今年4月1日に頭取のポストを石井純二副頭取に託した。横内氏の頭取在任期間は約6年間だが、リーマンショックの際には退くことも頭をよぎったという。横内会長に頭取退任を決めた理由や北洋銀との関係ができた経緯などを振り返ってもらった。(写真は、横内頭取時代の大型プロジェクトだった北洋大通センター)
――今年1月に頭取交代の発表がありましたが、横内会長が頭取に就任されたのが2006年6月。6年間で交代するということが頭の中にあったのですか。
横内 ひとつは私の年齢(68)ということもありますが、これだけ大きな組織になると、ある程度の年齢になると代わっていかなければ組織が沈滞してしまいます。組織には新陳代謝が必要だということは、私が頭取になったときから思っていました。
08年秋のリーマンショックの際に私が責任を取って辞めるという選択もあったかも知れないが、人から非難されてもそれに耐えて秩序を取り戻すことが先だと続投する決断をしました。
――前々任の高向巖頭取(現相談役)も6年間、横内会長も頭取在任6年弱。北洋銀の頭取在任ルールのようなものができた感がありますね。
横内 私は6年と決めていた訳ではありません。仮にリーマンショックが起こらなければ大型プロジェクトが完了して行内のIT投資も順調に進み、区切りが付く4年とか5年で辞めていたかも知れません。
もちろん、後継者がきちんと育っているなど複合的判断で、すべて揃ったと思ったのでこの時期に交代するのが良いと判断しました。
――札幌市の副市長(小澤正明氏)や道の経済部長(坂口収氏)、釧路公立大の学長(小磯修二氏)など行政関係者の北洋入りが相次いでいるように感じます。
横内 北洋銀がこれから前向きに成長を考えていくとき、外部で見識とキャリアを積んだ人を最大限活用させていただくためです。道庁や札幌市の指定金融機関ですから道や市が組織として回っていくために、(道や市の外郭団体や第3セクターへ)天下りができない状況の中で、北洋銀は北海道全体がうまく回っていくようにしなければいけない。もちろんそれは部分的な面で、北洋銀にとってもプラスだという評価がなければそんなことはしません。様々な要素で北洋銀にはプラスだという判断があってやっていることです。
もともと(行政関係者の)人数枠を決めて多いか少ないかという議論はしたことはありません。増やしていることはないし、行内がそれによって士気を喪失することはないと思います。よくよくご覧いただければわかるように、内部のポストを(行政関係者と)入れ替えているようなことはやっていません。あくまでアドバイザー、顧問的に動いていただくということです。それに、決して古巣に対する優位な立場を利用して動いてもらうこともありません。
――ところで、横内会長は日銀の不祥事が相次いだときの人事局長でしたが、直接関係はなかったのにけじめをつけて辞められ、法曹界に入られたのですね。京大在学中に司法試験に合格されていたので、その道に進むつもりだったのですか。
横内 人事局長を辞めたのは50代半ば。6月に日銀を辞めて司法修習の問い合わせをしたところ、『健康なら大丈夫』ということだったので健康診断を受けて願書を出しました。司法修習は翌年の4月から始まりましたが、1年弱の間に猛勉強をしましたね。なにせ(司法試験に合格して)30年以上経っていましたから忘れていることも多かったですから。
――司法修習は、大変でしたか。
横内 私が司法修習をする時期に丁度期間が2年間から1年半になりました。半年早く終えられると喜んだのですが、2年間で行うスケジュールを1年半でするものですから忙しくて忙しく、とてもきつい研修でした。幸い、卒業試験にも合格して弁護士の道に進むことができました。
――どんな場面で北洋銀との出合いがあったのでしょうか。
横内 企業法務を担当する弁護士になってまもなく、北洋銀と札幌銀行がグループ化することになり、当時の高向頭取から『ホールディングスを作りたいが、札幌にはそういう経験のある弁護士が少ない。君のところどうだ』と話がありました。私がお世話になっていた田辺総合法律事務所は、そういうノウハウを持っている弁護士がいますと返事をしたら、『君のところの事務所と契約したい。ついては、顧問弁護士として君の名前を使わせて欲しい』と言われて私は顧問弁護士になりました。
ホールディングスの仕事も終わって、これでもう(北洋銀の)仕事は来ないだろうと思っていたら、社外監査役になって欲しいと言われたのです。社外監査役なら取締役会に出ることが中心なので弁護士活動も続けられると考え引き受けて、1ヵ月に1度東京から札幌にきていました。それが2年間くらい続きましたね。
――それから北洋銀の経営陣になるわけですね。迷いはなかったですか。
横内 社外監査役として2年間が終わるころ、高向さんから突然に『経営に加わらないか』という話がありました。これは今までの(北洋銀との)関わりとは全く違うことですし、弁護士をしながらということにはならないので、どうしようかと思いました。
それまで私はスカウトを受けたこと一度もなかったのです。日銀時代にも引き抜きにあったことは一度もないし、もし望まれるのならそれに応えないと男じゃないと思って、こちらにお世話になる決断をしたのです。
大学生のときになりたかったのは裁判官でしたが、日銀を辞めて弁護士になり、一応法曹界で仕事をすることができたので大学時代の夢は実現しました。私の人生プランは法曹界で終わるというものでしたから、良かったかなと思っていたのです。まさか、もう1回ひっくり返ることがあるとは当時思っていませんでしたね。
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横内氏が司法修習を終えて弁護士事務所に入るとき、50代半ばを超えていたためなかなか働ける事務所が決まらなかったという。幸い、ある人物の紹介で田辺総合法律事務所に入ることができ、企業法務の専門弁護士として約4年間務めることができた。法曹界で人生を終えるという横内プランは、様々な人との出会いの中で、北洋銀へと導かれ頭取の重職を担うことになる。
横内氏は、京大法学部在学中に司法試験に合格したが、その合格通知が来る前に日銀の採用通知が来たため「先に来た方を優先する」と日銀入りを決めた。日銀を辞める際も人事局長として不祥事の責任を取る形で自ら身を引いている。そして、弁護士になり北洋入りを決断し、頭取退任も慣例の6月交代ではなく新年度が始まる4月交代を実現させて会長に就いた。
人生は決断の連続だというが、横内氏が経験してきた決断に通底するのは『廉潔さ』と言えるかもしれない。松本深志高時代の同級生と10年近い遠距離恋愛を経て結ばれたという逸話もそのことを裏付けているようだ。