北洋銀行元頭取の武井正直氏(86)が死去した。昨年末に食べ物が気管に入り肺炎を起こし東京都内の病院に入院。1月に入って回復していたが、その後容態が悪化して3日午前、命終した。北洋銀頭取を1982年から2000年まで18年間務め、普銀転換や破綻した北海道拓殖銀行の営業譲渡を受けるなど道内金融界の安定化と方向付けに存在感を示した。一昨年に竣工した北洋大通センターを訪れることを願っていたが、遂に実現しなかった。
25年(大正14年)12月山梨県生まれで、陸軍予科士官学校卒。同期には自治大臣や通産大臣を務めた故梶山静六氏がいる。終戦後は一時鳥取県で農協勤めをしたが、慶応大に入り50年卒業後に日銀入り。考査局次長から当時の北洋相互銀行専務に転じた。
82年に社長に就き、89年の普銀転換で頭取。以後、拓銀破綻による営業譲渡受け入れや札幌銀行とのホールディング設立など道内金融界の安定化と基盤づくりに洞察力と実行力で道筋を付けた。
拓銀の道内営業分の引継ぎの際には、丸井今井や当時の第一臨床検査センター(現アインファーマシーズ)の債権引継ぎを断ったことや拓銀とは文化が違うなどの発言で物議を醸したこともあった。
2000年に会長に退き05~07年まで相談役を務めた。相談役のころには、米軍空母の小樽寄港に際して80歳の身ながら米軍戦闘機にパイロットとともに乗り込み、日本海の海上を航行する空母に着陸体験したこともある。
相談役を退いてから自宅のある田園調布に戻り娘夫婦とともに住み、北洋銀幹部とは定期的に接触していた。
一昨年4月に北洋大通センターが竣工したとき、武井氏は拓銀の金庫を残したことに不満だったという。しかし、モニュメントとして地下広場に設置する説明で納得。札幌ドームに出した北洋銀の看板設置場所について注文をつけたこともあり、北洋銀のことを絶えず気にかけていた。
北洋大通センター竣工時にテレビに映った同センターを見て訪れることを願っていたが、女医の孫が一昨年立ち寄って祖父の願いを叶えた。
昨年暮れに肺炎にかかったが持ち直し、1月には北洋関係者がお見舞いに行くことを伝えると「無用」と断っていた。
道経営者協会会長のころは、道経済連合会会長の故戸田一夫氏、道商工会議所連合会会頭の伊藤義郎氏、道経済同友会代表幹事の大森義弘氏の息がピッタリと合い、4人が車座になって話し込む場面がたびたび見られた。堀達也元知事の退任後に、堀氏を札幌大学理事長に推薦したのは武井氏で当時理事長だった伊藤義郎氏を口説いて実現させたものだった。
武井氏は、北洋銀を道内トップバンクに引き上げて育てた道内金融界の重鎮として名を残すことになる。