拓銀出身でエイペックスリゾート洞爺社長を経て日本清酒の社長に転じた白髪良一氏(72)が15日、『トップの決断~経営に関する私の体験談』をテーマに講演した。白髪氏は「改革は現状分析と明確な目標設定、血を流す覚悟が必要。改革を成功させるには最終的には人がどう変わるかにかかっている。トップは率先垂範して、時に灰皿を投げつけるくらいの激しさが必要だ」と述べ、瀕死の経営状態だった日本清酒を4期連続黒字化させた経緯を披露した。この講演は、北海道労働者福祉協議会が主催したもので労働組合関係者など約150人が参加、労働側が現役の経営トップを招くのは珍しい。(写真は講演する白髪良一・日本清酒社長)
 
 白髪氏はバブル後の1994年にエイペックスリゾート洞爺社長に就任、赤字タレ流しだったホテル経営の建て直しが使命だったものの、「1週間で銀行員には出来ない」と悟り、ホテル経営のプロだった窪山哲雄氏(当時ハウステンボス社長)の招聘に動いた。窪山氏は、会員制ホテルであること、組合があることなどを理由に固辞。
 
 結局3年かかって窪山氏が運営会社を作り引き受けることになったが、「私の人生の中で一番苦しかった時期。3ヵ月で体重は7㌔減り、組合との団交で日常の仕事が出来なかった。精神的圧迫感は相当なものだった」と振り返った。
 
 白髪氏は、窪山氏が語っていた「安売りすると人材が育たず技術も落ちる。そうすると良い客を失い、いずれは暖簾を失う」という言葉が印象的だったとし、「その言葉は今の日本清酒の経営でもベースになっている」と語った。
 
 白髪氏は拓銀に戻ったが97年8月に今度は日本清酒に出向。その3ヵ月後に拓銀が破綻し、結局99年12月に社長に就任し同社建て直しの陣頭指揮を執ることになった。
 
 まず手をつけたのは年商280億円の75%を占めていたビールなど卸部門の分離。3ヵ月ごとに東京の三菱食品(当時菱食)に出向いて譲渡交渉を続け2001年に営業譲渡、本来のメーカーとして生き残ることを決断した。
 
「私はトップについて3年で黒字にする方針を立て、卸部門の分離を決めたが当然総論賛成、各論反対が噴出した。実行できなければ辞めると腹を括っていたし若い役員を登用して改革の布陣を整えた。そのうえで、トップのやる気を社員に伝え、ガラス張りの経営を徹底したことで、メーカーとしての企業風土をもう一度創ることに社員一丸となることができた」
 
 当初の3年で黒字は達成できなかったものの6年で黒字化、「しかしこの黒字は会計方法などのルールを変えたことによるもので本来の黒字ではない。今は新しい利益の取れる事業への参入も進め、改革は第二のステージに入っている」
 
 清酒業界を取り巻く環境は年々悪化、消費量は10年間で半減し道産酒の道内でのシェアは20%に落ち込んでいるという。価格競争と市場の縮小は、同社に小さくても小回りの効く企業への転換を迫っている。
 
 同社が徹底しているのは“ニッパチの法則”というもの。2割のお客で8割の売上げがあるのがサービス業の特徴で、同社では2割のコアなお客に向けて取り組みを強化、8割を8割5分に引き上げていく戦略を強化しているという。
 
 白髪氏は常に社員にこう問いかけている。「真剣だと知恵が出る、中途半端では愚痴が出る、いい加減だと言い訳が出る――これは当社の社訓でもあるんです」
 
 経営は人づくり、担い手づくりそのものだということが白髪氏の訴えたかったことのようだが、参加した労働組合関係者にとっても人づくりや担い手づくりの課題は共通している。普段聞きなれない経営者の肉声に、参加者たちは感じる入る部分が多かった様子だった。


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