ホーマック創業者で1月13日に死去した石黒靖尋会長(74)の社葬が、2月1日札幌パークホテルで行われた。取引先など約2000人が出席、故人と最後のお別れをした。ホーマックのユニフォームを着た社員代表らが社歌を歌って見送るなど約2時間の社葬は、石黒会長が作ってきたホーマックの社風を示すかのように、会葬者たちの胸に染み込んできた。(写真は、札幌パークホテルで行われた社葬)
1959年明治大学商学部を卒業した石黒氏は、真っ直ぐに故郷釧路で父親が創業していた金物店、石黒商店に入社する。長男として家業を継ぐ覚悟を決めていたが、高度成長が始まる時期でもあったため、石黒氏の夢は大きかった。
発展のきっかけになったのは、石黒氏の夢を支援した当時の北海道銀行釧路支店長だった。石黒商店の隣にあった道銀釧路支店に石黒氏は経営計画書を持参、「5年間で年商3億円を
目指す」と融資を要請すると、当時の支店長は「お兄さん、あんた若いんだから20億円でも30億円でも目指したらいいよ」と叱咤激励。
後に、石黒氏はこのときのことを「勇気と希望のエネルギーになった」と振り返っている。石黒商店がその後、ホーマック、DCMジャパンホールディングスへと進化・発展していく出発点になったことは間違いない。
1970年代には金物店は道内の至るところにあった。その多くが個人商店の域を出ないまま現在に至っている中で、ホームセンターへの脱皮をいち早く進め、全国企業へと発展していった石黒商店の原動力は、石黒氏が描いた夢=構想力とそれに向かって挑戦する精神力、そして少しばかりの野心という“調味料”がバランス良く配合されていたためだろう。
目立つことが好きではなかったという石黒氏には、こんなエピソードもある。
道銀と北陸銀行のほくほくフィナンシャルグループの監査役を6年前に引き受ける際、石黒氏は就任を固辞していた。石黒氏は当時、業界団体の役職に就くことはあっても他の企業の役職に就くことはなかったからだ。
そこを説得したのは道銀の堰八義博頭取。何度となく石黒氏を訪ね、直接交渉の粘りで石黒氏は折れ、ほくほくグループの監査役に就任を決心したという。石黒氏と堰八氏の2人には共通した志があったのかどうかは分からないが、「堅物の石黒氏が動いた」ことは驚きをもって伝えられた。
引き受けた限りは、手を抜かず真正面から取り組むのが石黒氏の性格だったのか、昨年12月24日にほくほく本社の富山で行われた取締役会には札幌からテレビ会議で出席している。そのころ、すい臓がんは末期で病魔を押して「この会議は欠席できない」と姿を見せたという。これが最後の公での活動になった。
石黒氏の人生5訓は「あせるな おこるな いばるな くさるな おこたるな」。この5訓を墨守してきた石黒氏に対する社員の信頼は大きいものがあった。
マスコミへの露出度が少なく人物像があまり知られていなかった石黒氏だが、社葬を終え黄泉の国へ旅立ってから、石黒氏の輪郭がハッキリとしてきたようだ。亡くなって日を追うごとにその輪郭を埋めていくように実像が知られていくことを計算していた訳ではないだろう。