新日本有限責任監査法人札幌事務所などが協力して道内で活躍する起業家を表彰する「EOY(アントレプレナーシップ・オブ・ザ・イヤー)2014ジャパン北海道地区アワードレセブション」が、17日に札幌市内のホテルが開催された。この催しのゲストとしてスピーチしたのがアインファーマシーズの大谷喜一社長。集まった起業家たちを前に、大谷氏は自らの起業の経験を『成長への挑戦』と題して約40分に亘って語った。講演要旨を再構成して掲載する。今回は1回目。(写真は、EOY2014ジャパン北海道地区アワードレセプションで講演する大谷喜一社長)
大谷氏は1951年浜頓別町生まれ。北海高校から日大理工学部薬学科に進学。卒業後は薬剤師として杏林製薬に就職した。脱サラして札幌市内で小さな薬局を始めたのは80年のことだった。大谷氏、29歳の時である。独立したものの、儲けが少なく将来の夢がなかなか描けなかった。「このままではダメだ」と考え、叔父が経営していた旭川の臨床検査事業を引き継ぐことを決める。当時、同社の売上高は5億円で利益も出ており引き継いだ後も順調に成長軌道を描いた。
94年、この第一臨床検査センターは株式を店頭公開した。当時の売上高は約40億円で利益は3億円だったが、大谷氏は公開前に20億円、公開後に20億円を調達、何と売上げと同じだけの資金を市場から調達したのである。
「資金調達のために新たに株を発行すると自分の持ち株比率が下がる。資金を入れると乗っ取られるのでは躊躇する起業家は8割くらいいるだろう。しかし、大事なことは資金を入れてトップライン(売上高)を押し上げること。資金調達が成長に欠くべからざるものだと思えるかどうかが成長を左右する岐路だ」と語る。
相次ぐ資金調達によって大谷氏の持株比率は売上げと同額の資金調達によって4割弱に下がった。「実は、私自身にも資金調達に躊躇があった。しかし、『乗っ取られるほどの会社か』と自問自答して考え方を変え実行した」
株式公開後は旺盛な資金調達によってトップラインは引き上げられ50億円、100億円と大きく伸びて行った。「ここで勘違いが始まる」と大谷氏。自分は有能な経営者だと舞い上がってしまうというのだ。
そのころの心境をこう語っている。「なるべく人前に出ないようにして静かにしていたが、心の中は傲慢そのものだった。『どうだ』という気持ちが強かった。会社にはリスクや課題があっても自分自身で否認してしまう。『まずい』と思っても、なかったことにしたり見なかったことにする心理状態だった」
大谷氏によると、ある程度成功した段階で若い起業家はほぼ間違いなく全員同じような心境になるだろうという。第一臨床検査センターは、それ以降、家電量販店やホームセンターに進出、規律のない拡大を始める。「ホームセンターを始めるため当時の石黒ホーマ(現ホーマック)から人をスカウトしてスタートしたが、これまでやってきたドラッグストアと品数がまるで違う。傲慢さが災いして結局失敗するハメになった」
不運は重なって襲ってくる。メインバンクだった拓銀が破綻、大谷氏は起業家として崖っぷちに立たされることになる。(以下、次回に続く)