コープさっぽろ(本部・札幌市)は13日、福島を考える講演会「ふくしまのいま!そして自主避難者のいま!」をコープさっぽろ北12条店2階会議室で開催した。講演したのは、避難指示区域外から子ども2人を連れて札幌に自主避難してきた宍戸隆子さん(40)。福島原発事故から2年が経過したが、自主避難者たちは家族が離れ離れになり、戻るべきかどうか毎日葛藤を繰り返している実態を時おり涙ながらに話した。組合員約30人のほか道内7会場をテレビ会議システムで繋いで中継された。(写真は、講演する宍戸隆子さん)
宍戸さんは、福島第1原発事故が起きた後、子どもたちの被爆を心配しつつも避難をためらう毎日が続いたと訴えた。「放射線量が高くなっても避難指示区域ではなかったのでなかなか踏み切れなかった。4月から学校が始まると言うし私はPTAの役員もやっていた。避難、避難と騒ぐと農作物の風評被害も広まる。何度もバッグに荷物を詰めて玄関まで来てはもう少し待ってみようと繰り返す日々だった。避難を決めたのは年間被曝量が100㍉シーベルトに入り『このまま子どもをここに留めておいて良いのか』と決断、早くから受け入れ表明していた札幌に6月15日に自主避難した」と経過を語った。
札幌では雇用促進住宅が提供され、最初は20世帯だったがその年の夏休みや冬休みに避難者が続き150世帯に増えたが、「学校は子どもたちや親を地域に縛る道具のような存在になっていたのではないか」と宍戸さんは言う。
自主避難者たちは、福島を捨てるのかと地元の人たちから非難され、“非県民”のレッテルも貼られることもあったという。「札幌に来ても公園で他のお母さんたちと話もできなかった。避難してきたことを話せば差別されるかも知れなかったから。完全に孤立していた。これではいけない、避難者同士、地域住民同士を繋がなければますます孤立すると考えて声を上げ避難者で自治会を作ることにした」と宍戸さんは当時の胸の内を切々と語った。
自治会を作ったことで町内会とも接触が始まりコミュニケーションが取れるようになったという。「北海道は避難者と支援組織、行政が一体になって連携がうまく取れていると思う。大変ありがたいし、全国的にも“北海道方式”として注目されている。私たちは北海道に避難してきて恵まれていると思う」と感謝の気持ちも表わしていた。
原発事故から2年2ヵ月が経ち福島の友人からも帰宅を促す連絡があるという。そのたびに宍戸さんも心が揺れるとし、「家族が壊れても良いのかという思いと放射線被曝の葛藤をずっと繰り返している。毎朝、命の選択をしているのが避難者たちで、このことに慣れることのできる人はいないだろう」と心境を明かした。
宍戸さんは、「放射線の影響が体に出るのかどうかは分からない。私たちは根拠も何も持っていないが、それぞれの判断は尊重されるべき。原発の一番大きな被害は、福島をボロボロに分断してしまったこと。福島一つではなくなった」と強調した。
宍戸さんは、札幌にある自主避難者コミュニティの代表を務めている。