94年11月のノルウェー合宿でノーマルヒルで転倒し鎖骨を骨折する。葛西氏にとって初めて経験する大きな怪我だった。アルミのピンを入れて固定する手術を行った。翌95年1月、雪印杯が始まる前日、手術をしてくれた医師に訊くと『跳んでも良い』という返事。ノーマルヒルに出場し、怖さもなく良い感触だったという。(※7月22日に札幌市内で行われたSATOグループのオープンセミナーで葛西氏が講演した内容を再構成したものです。写真は、講演する葛西氏)
しかし、その数日後、大倉山での1本目。良い風を感じた直後に「危ないな」という違和感が襲い右肩から転倒して着地。「レントゲンを見るとアルミのピンがV字になっていた」と葛西氏は述懐している。
バンドで鎖骨を固定してから11日後、宮様スキー大会に出場。スタート台に立った瞬間、怖くて跳べない自分に気づく。葛西氏が経験する初めての“怖さ”だった。スタートが切れず、「このままずっと怖い思いを続けるのだろうか」という思いが頭をよぎる。結局、この時から2005年の冬までの10年間、葛西氏は恐怖心を克服することができなかったという。
葛西氏がジャンプへの恐怖心を抱き始めた頃、母親から2通目の手紙が届く。「つらい時期だったので、この手紙に励まされ支えられた」と葛西氏。しかし、その母親は96年に火事で全身の70%に火傷を負う、皮膚を移植して何とか一命を取りとめたが、11ヵ月後の97年5月に亡くなる。最愛の母の死、そして難病に苦しむ妹のためにも98年の長野五輪では絶対に金を取る――強い思いで臨んだ五輪だったが、ノーマル7位、団体はメンバーから外れる。既に原田氏と船木和喜氏は団体選出場が決まっていた。残り2人は葛西氏、岡部氏、斎藤浩哉氏の3人から選ぶことになっていたが、試技では1勝2敗で負け、団体選から外された。「悔しかったが、素晴らしいライバルがいたからジャンプを続けられたと思っている」(葛西氏)
長野五輪以降、葛西氏は所属チームの相次ぐ廃部に遭遇する。98年に地崎工業がスキー部を廃部、移籍したマイカルも3年後に破綻して廃部。そして2001年秋、土屋ホームがスキー部を創部、移籍することになる。土屋ホームに移ったころ、原田氏が「土屋ホームで家を買いたい」と言ってきた。原田氏は豪邸を建てる。すると、岡部氏、斎藤氏も土屋ホームで家を建てたいと注文してくる。先輩たちの家を見ながら、負けず嫌いの葛西氏は「自分はいつかもっとすごい豪邸を建ててみせる」と心に決めたという。
02年のソルトレイク五輪は身体とメンタル面を鍛えて臨んだ。176㎝、58㎏、体脂肪は5~6の範囲で一番身体が良かった時期だというが、「技が崩れてジャンブがうまくいかなかった」(葛西氏)ため個人は40位台で挫折を味わう結果になった。03年春からフィンランドからコーチを招聘、新しい技術を取り入れることにした。06年のトリノ五輪は、ジャンプのルールが毎年変わったころだったため団体選でも日本チームは入賞したものの振るわなかった。
10年バンクーパー五輪で葛西氏は6大会連続出場を果たす。個人ラージヒルの2本目、「初めて納得のいくジャンプができた」(葛西氏)。その2本目は135mの大ジャンプで成績は8位、団体でも納得のいくジャンプで5位入賞だった。「ジャンブは2本揃えないとメダルは取れない。そう実感した五輪でバンクーバーは良い経験になった」と葛西氏は振り返っている。そして、いよいよソチ五輪を迎えることになる。(以下、次回に続く)