挫折と再起の繰り返しから這い上がってきたスキージャンプメダリスト葛西紀明氏のレジェンド誕生物語②

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IMG_8715 地崎工業に入社した91年の夏ころからジャンプではV字スタイルが主流になってきた。その年に行われたワールドカップ札幌大会で葛西氏はスキー板を並べて跳ぶクラシカルスタイルで6位に入賞したこともあって、出場が決まっていた初めての五輪(92年アルベールビル)でもクラシカルで挑戦するつもりだった。(※7月22日に札幌市内で行われたSATOグループのオープンセミナーで葛西氏が講演した内容を再構成したものです。写真は、講演する葛西氏)
 
 五輪1ヵ月前になって監督から「V字に変えろ」という指示。頑固な一面を持つ葛西氏は「変えない」と突っ張る。監督はさらに迫る。そして切り出した言葉が「変えなければ連れて行かない」。渋々応じた葛西氏はV字を試みるが、後々、「ジャンプ人生で一番怖い思いをしたのがV字に変えた時だった」と振り返っている。
 
 クラシカルでは跳んだ後にスキーの先を見ていれば怖くはなかったが、V字は目の前が雪ばかり。しかし、2週間で葛西氏はV字の良さを実感した。「パラシュートが開いたような感じ。風圧を身体いっぱいに受けるのがV字の良さ。でもなかなか右のスキーが広げられなかった」(葛西氏)
 
 そして臨んだアルベールビル五輪はプレッシャーに負け、V字も開けず残念な結果になった。それから2週間後、200mを超えるジャンプ台があるチェコで行われたワールドカップを兼ねた世界フライング選手権で葛西氏は182mを2本跳び優勝、「3本目はビビッて149mだったが19歳の最年少優勝記録も付いてきた」(葛西氏)
 
 夏と冬の五輪大会を2年ごとに行うことになって94年はノルウェー・リレハンメル五輪が開催され、葛西氏も出場。ノーマル5位、ラージ14位と振るわなかったが日本チームは調子が良く団体戦では金が期待されていた。五輪前年の93年、葛西氏の妹が再生不良性貧血という難病になる。骨髄移植をしなければ治らない。葛西氏は「金メダルを煎じて飲ませてあげたい」という一念で団体に期待を繋いだ。1本目で葛西氏を含めた4人は好調で金は確実とされた。2本目も3人までは好調だったがラストで原田雅彦氏(現雪印メグミルクスキー部監督)がまさかの失敗ジャンプ。記録は97・5m、惜しくも団体銀になった。
 
 葛西氏は原田氏に駆け寄って「久しぶり取れたメダルだからがっかりしないで」と声をかけたが、妹に金メダルを持って帰ることができなかった悔しさは相当なものだったようで「内心は蹴飛ばしてやりたいほどだった」と打ち明けている。よほど悔しかったのか、その銀メダルは長く土屋ホームスキー部のロッカーに仕舞い込んでいたという。
 
 その後、妹はドナーがなかなか見つからず苦しんでいたそうだが、幸いにも見つかり臍帯血移植で血液型をBからAに変え、無菌室で回復を待ち一命を取り留めた。葛西氏が見舞いに行っても妹は「死にたい。臍帯血移植なんてするんじゃなかった」とたびたび語っていたそうで、葛西氏のジャンプ人生で母親と並び妹の存在は高いモチベーションを継続する源になっているようだ。(以下、次回に続く)

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