ソチ冬季五輪スキージャンプのメダリスト、葛西紀明氏(42、土屋ホーム所属)のジャンプ人生は、挫折と再起の繰り返しだった。スランプになった時に届いた母の手紙、10年間かけて克服した飛ぶことへの恐怖心、高いモチベーションの原動力になっている家族愛――葛西氏が歩んできた道は、決して順調なものではなかった。4年後のピョンチャン冬季五輪では「金」を目指し、50歳までは現役を続けると宣言する葛西氏、その強い意志が生まれてくる内面を探った。(※7月22日に札幌市内で行われたSATOグループのオープンセミナーで葛西氏が講演した内容を再構成したものです。写真は、講演する葛西氏)
葛西氏がジャンプを始めたのは小学生時代。身体が弱く父親からマラソンを勧められて走っていたが、ある冬、同級生に誘われ地元下川町にある5mのジャンプ台へ行く。「マラソンよりジャンプが面白い」と親に隠れて楽しむようになったが、親にはジャンプをしていることを言えない事情があった。5人家族だった葛西家はコメも買えず電話もない苦しい生活を送っていたためだ。道具一式揃えると30万円はかかる。とてもジャンプはできない。やりたいことができない悔しさを小学生の葛西氏は胸に抑え込むしかなかった。
ある時、親に内緒で出場した町民大会で2位になる。それがジャンプ少年団のコーチを通じて父親の耳に入った。「お前はマラソンを取るのか、ジャンプを取るのかどっちだ」と迫られ、葛西氏は迷わずジャンプを選んだ。同じ町内で幼いころから兄貴のように慕っていた2歳年上の岡部孝信氏(現在、雪印メグミルクスキー部コーチ)の着ていたお下がりでジャンプの練習に明け暮れる日が続いた。その頃の心境について、葛西氏はこう語っている。「小中学校と貧乏な生活だったので、いつか親のために立派な家を建ててやりたいと思っていた。ハングリー精神があったから、ジャンプでは負けなしで自分でも良い成長をしたと思う」
中学3年の3月、札幌の大倉山で行われた宮様スキー大会。中学生は出場できないが、葛西氏はテストジャンパーとしてジャンプ台に挑むことになった。「スタート地点に立ったら怖い気持ちだけだった。無事に帰ろうという一念で跳んだ」(葛西氏)。2回の試技でK点の110m付近に着地。
その時は何も分からなかったが、翌日コーチが「葛西、お前の名前が新聞に出ているぞ」と息せき切って起こしに来た。新聞には、テストジャンパー葛西が本大会のトップより良い成績だったことが書かれていた。大会優勝者は107mと108m。葛西氏は108mと110m。一躍注目を集め、この時から葛西氏も世界を意識するようになる。
中学卒業後、東海大四高(札幌市)に進学しSTV杯で初優勝の余勢を駆って世界選手権に出場したが、50位台と散々な結果に終わる。「世界の壁に打ちのめされた」(葛西氏)
高校時代の3年間は寮生活を送ったが、寮は校内にあって3度の食事は学食で食べていた。夕食後は体育館でのウエイトレーニングと30分間のランニングを欠かさなかったという。高校3年の時、初めてスランプに陥った。跳んでも跳んでも納得のいく良いジャンプができない。コーチの声も耳に入らなくなっていた。
そんな時、母親から手紙が届いた。《つらい時には人の気持ちが分かるようになるものです。……紀明がどん底から這い上がってくる姿を見せて欲しい》
迷いや焦りが続く中で、母親をはじめ周囲に支えられていることを実感し、やがてスランプから脱出することができた。高校を卒業して入社したのは地崎工業だった。憧れていたジャンプの大先輩、秋元正博氏のいる会社だった。(以下、次回に続く)