第80回 寿都町文化財展示室 -いにしえのまほろば寿都-

連載 北のミュージアム散歩

 「北のミュージアム散歩」は、道新文化センターのノンフィクション作家を育成する「一道塾」(主宰・合田一道)の塾生が書いた作品を連載するものです。道内にある博物館、郷土歴史館、資料館などを回り、ミュージアムの特色を紹介しながら、ミュージアムの魅力やその存在する意味を問いかけます。
 第80回は、寿都町の「寿都町文化財展示室」です。ぜひご愛読ください。

(合田一道)

■第80回 寿都町文化財展示室
-いにしえのまほろば寿都-

 渡島半島西側に延びる国道二二九号線「日本海追分ソーランライン」を、車で岩内から函館方面に一時間ほど走ると、人口三〇〇〇人ほどの寿都町に着く。この町は、道南地方沿岸によくある閑静な漁業町だが、古代の飛鳥時代に於ける阿倍比羅夫、平安時代末期の弁慶らの伝説が残り、江戸時代初期から商い場として栄えてきた。明治時代を迎えても、教育や文化面でも充実し、鉄道も敷かれた道内で有数の都市となる。


江戸時代初期の繁栄する寿都の絵図(著者撮影)

 「寿都町文化財展示室」は、この様な町の歴史を伝えようと、平成七年(一九九五)、国道沿いの総合文化センター「ウイズコム」の完成とともに、一階に設置された。自由に入れ、展示物を見ながら町の歴史が学べる。
 寿都町は、海産物が豊富な寿都湾に位置し、北海道では温暖な地域で、二万年前の旧石器時代から人々の痕跡を認め、縄文や擦文土器が多数出土していることから、長期に及び集落が形成されていた。
 阿倍比羅夫の蝦夷遠征に関するパネルにある、『日本書紀』の「阿部臣舟師百八十艘ヲヒキイ郡領ヲ後方羊蹄に置ク」の一文が目に付く。斉明五年(六五九)、朝命で蝦夷地に入り、寿都湾に船を泊め、富士山に似た羊蹄山を目印に、尻別川を上ったという内容が紹介されていた。
 「スッツ開基のころ」は、寛文元年(一六六一)、松前藩により、アイヌ民族との交易を目的に請負場所が設置され、和人が町づくりを始める説明だ。その後、北方交易の拠点となり、寛文九年に町が大きく整備されることで、開基の年となる。この年、シャクシャインの戦いが勃発し、松前藩から「神威岬以北への女人通行禁止令」の掟が出され、積丹半島から奥地の和人の定住が厳しく制限された。そのため、岬の手前に位置する寿都に、ますます人々が集まり賑やかな町に成長する。
 幕末期、ロシアの南下におののいた幕府は蝦夷地の警備を東北四藩に命じた。津軽藩は、箱館から神威岬までの地域を受け持ち、その拠点として津軽藩出張陣屋が寿都に置かれる。一五〇人が交代で十三年間に渡り詰めるが、寒さのため、少なくとも藩士の五人が亡くなり、現在の町営墓地に埋葬されていると記されていた。


出張陣屋のジオラマ 寿都湾が一望できる高台に作られた。(著者撮影)

 寿都といえば漁業、それもニシン業だ。鰊という魚の解説から、刺し網から改良した行成網という地元ならではの漁獲方法などを紹介している。江戸時代中期の享保年間(一七一六~一七三五)から、好漁場となり開発が進んだ。施設の中央に巨大なジオラマがあり、運上屋のカクジュウ佐藤家が経営する漁場の建物や人物など、精巧な模型が人目を引く。佐藤家は、源義経の家臣の末裔と云われ、漁獲量のピークを迎える明治時代、漁期になると、医師や住職も参加し、町中の総出で行われた。


前浜のカクジュウ佐藤家の様子
漁場・加工工場・貯蔵庫が機能的に配置された、賑わっている漁場。(著者撮影)

 明治二五年(一八九二)、人口が二万人を超え、道内七位にランクする町となるが、大正時代になると、ニシン漁が衰退し、銀や亜鉛を採掘した鉱山も休山するなどして、徐々に人口は減少した。大正九年(一九二〇)、寿都鉄道会社が、鉄道を開通させるが、需要の縮小により、昭和四三年(一九六八)に廃止となる。


寿都鉄道の路線パネル
函館本線の黒松内から枝分かれして寿都まで延びていた。(著者撮影)

 過去の建物に関するコーナーは、明治時代から戦前まで、学校や病院などの官公庁施設のほかに、教会、劇場や映画館など、多くの立派な建造物が建てられ、今は無いそれらの写真を展示していた。

 明治時代となり、開拓使が置かれ、北海道の時代が始まると考える人々が多い。だが、実際の北海道の歴史はもっと奥深く、過去に多くの「まほろば」があった。ここに入ると、飛鳥時代の伝説から始まる寿都町の往年の栄華を実感する。


「寿都町文化財展示室」の入口(著者撮影)

利用案内
住  所:〒048-0405 後志振興局寿都郡寿都町字開進町187-1
開館時間:午前9時~午後10時まで
入 館 料:無料
休 館 日:年末年始
電話番号:0136-62-2100

付近の見どころ
弁慶岬
 町内にあり、薙刀を手に法師姿の弁慶像が立っている。源頼朝に攻められ、奥州平泉の藤原氏から逃げて来た義経一党が、寿都への道を辿ったと伝えられている。弁慶は、この地で相撲を取ったとされ、確かに土俵の形と四本柱を立てたような跡が残っていた。

文・写真:河原崎 暢

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