第22回 「白石郷土館」―白石開拓のいぶきを後世に伝えるー

連載 北のミュージアム散歩

 「北のミュージアム散歩」は、道新文化センターのノンフィクション作家を育成する「一道塾」(主宰・合田一道)の塾生が書いた作品を連載するものです。道内にある博物館、郷土歴史館、資料館などを回り、ミュージアムの特色を紹介しながら、ミュージアムの魅力やその存在する意味を問いかけます。
 第22回は、札幌市の「白石郷土館」です。ぜひご愛読ください。

(合田一道)

■第22回 「白石郷土館」―白石開拓のいぶきを後世に伝えるー

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白石郷土館外観

 白石郷土館は、札幌市白石区の白石区複合庁舎(地上7階、地下2階)の1階にある。この館は、白石ふるさと会(武藤征一会長)と白石区の協働事業として計画され、平成28年(2016)11月7日に開館した。同ふるさと会をはじめとした地元有志の熱心な設置運動があり、これが実を結んで複合庁舎の設置計画の中に織り込む形で実現したものだ。
 館の広さ自体は75平方メートルとこじんまりしているが、その役割は重要で、この地域(旧白石村)に入植した先人の奮闘ぶりや、同村が札幌市と合併した昭和25年(1950)までの記録を後世に伝えることを目的としている。

 複合庁舎玄関のすぐ右手にある郷土館に入ると、仙台藩白石城の初代城主片倉小十郎景綱の甲冑が飾られている。その隣には、2艘の船(咸臨丸と庚午丸)の模型が並んで置かれている。
 奥へ進むと、その先は、主に壁に展示してある23枚のパネル(写真と説明文で構成)により順次説明している。

 最初に目に入るのは、慶応4年(1868)における奥羽越列藩同盟の崩壊と仙台藩の降伏に至る経過の説明だ。戊辰戦争の後、仙台藩白石城主の片倉家は、家禄(1万8千石)を取り上げられ、わずか22石となった。
 家臣1,406戸7,459人に禄を与えることができなくなった城主片倉邦憲は、菩提寺の傑山寺に家臣達を集め、対策を協議した。その結果、北海道に新天地を求めて移住する道を選択し、太政官へ嘆願したところ、明治2年(1869)9月、胆振国幌別郡(現登別市)支配と自費移住を許された。
 翌3年6月には移住の第1陣が、同4年3月には第2陣が、それぞれ渡道して幌別、鷲別、登別へ入植した。ところが出発直後、思いがけなく太政官から片倉家家臣600人を新たに北海道へ移住させ、開拓使貫属(「貫属」とは開拓使に属する意)とする旨の知らせが届いた。
 これに従い、第一班貫属取締の佐藤孝郷(たかさと)以下約400人が咸臨丸で寒風沢(さぶさわ)(宮城県)を出航したが、船が上磯郡木古内村の更木岬(さらきみさき)沖で座礁した。地元住民の活躍で乗組員は全員救助されたものの、荷物の8~9割を失った。このため彼らは函館で待機し、庚午丸でやって来た第2班約200人と合流して小樽に到着。そこから陸路、石狩に向かい、佐藤孝郷ら約380人はその年の内に望月寒(最月寒。のちに「白石村」と命名)に入植したが、三木勉ら約240人は石狩の空き家などで越冬し、翌明治5年2月半ばに発寒村(のちの手稲村)へ入植した。

 パネルはこうした白石村移住までの経過及び移住後の様々な歴史ー発寒村の誕生、上白石村の分村、白石神社の創建、善俗堂(白石小学校の前身)の創設、民籍編入と兵農、移住の形態、人口・産業別生産高の推移、稲作を含む農業の発展、二級村時代から一級村時代への移行ーなどについて、詳しく解説している。
 渡道途中での咸臨丸の遭難、移住者のリーダーだった佐藤孝郷が果たした功績のことが、特に印象に残った。

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館内の様子

利用案内
所 在 地:札幌市白石区南郷通1丁目南8-1 白石区複合庁舎1階
     問い合わせ先 白石区ふるさと会事務局(白石区市民部総務企画課)
     電話(011)861―2405
アクセス:地下鉄東西線白石駅から直結
開館日時:月曜日~金曜日(祝日午前及び年末年始を除く)8時45分~17時15分、
     毎月第2土曜日とその翌日の日曜日
入 場 料:無料

付近の見どころ
 アサヒビール工場(白石区南郷通4丁目南1の1。電話(011)863―3515)
 札幌市内唯一の大規模ビール工場で、年間5万キロリットルのビールを生産。地下鉄東西線白石駅から徒歩10分ぐらい。見学者は事前予約が必要。案内人付きで工場を見学できるほか、ビールを試飲できる(見学の所用時間は約90分間)。アサヒビール園白石(はまなす館、ロイン亭、ラム&グリル「ビルゼン」)もある。

文・写真 北国 諒星

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