「北のミュージアム散歩」は、道新文化センターのノンフィクション作家を育成する「一道塾」(主宰・合田一道)の塾生が書いた作品を連載するものです。道内にある博物館、郷土歴史館、資料館などを回り、ミュージアムの特色を紹介しながら、ミュージアムの魅力やその存在する意味を問いかけます。
第13回は、札幌市の「エドウィン・ダン記念館」です。ぜひご愛読ください。
(合田一道)
■第13回 「エドウィン・ダン記念館」 ―エドウィン・ダンを語り継ぐ―
記念館の館内
札幌市の地下鉄真駒内駅を出ると、空が大きく広がり、清らかな空気が出迎えてくれた。
真駒内の地は、1876年(明治9)に、開拓使のお雇いアメリカ人エドウィン・ダンによって切り開かれた、3000ヘクタールもの広大な牧牛場が始まりである。戦後、アメリカ軍に接収されて駐留軍のキャンプ場となり、キャンプ・クロフォードと呼ばれた。1972年(昭和47)には、札幌冬期オリンピックの会場となり、選手村であった建物は今も使われている。広い道路や沢山の街路樹、モダンな建物など、外国の街のような印象をうける。
「エドウィン・ダン記念館」は緑色の屋根に白い壁が、ひときわ目を引く洋館である。明治時代に建てられた、下見板張り、寄棟造りで、正面中央の切妻造りの玄関と屋根窓、ベランダなどに特徴がある。1880年(明治13)に、真駒内牧牛場の事務所として建てられた。1964年(昭和39)に現在の場所に移築されて、その5年後から一般に公開された。
ドアベルの音を聞きながら、中へ入る。中央にホールがあり、左右に部屋が並んでいる。格子ガラスから射し込む光が、室内を柔らかく反射する。天井が高く、壁も床も、豊富な木材が使われていて落ち着く。壁一面に掛けてある、一木万寿三画伯の油絵23点は、ダンの日本での活動の記録を、物語風に描いている。
エドウィン・ダンは、1848年(嘉永元)、アメリカ西部オハイオ州の大牧場に生まれた。父親や叔父達に、西部に生きる男の開拓者魂を教え込まれた。1873年(明治6)、24歳の時に開拓使の顧問であったケプロンの要請で、牛42頭と羊100匹を日本に届ける困難な仕事を請け負い、家畜と共に日本へやってきた。まず、開拓使の東京官園で、牧畜や大型農業に全くの素人であった日本人に、家畜の取り扱い方から農機具の使い方などのあらゆる技術を、初歩から教え込んでいった。
札幌近郊の真駒内に牧牛場を建設してからは、酪農家として、更に開拓者としての持てるあらゆる知識や技術を、惜しみなく北海道のために捧げてくれた。札幌農学校のクラーク博士に協力して、学生達に西洋式大型農場の指導もした。10年に及ぶダンの開拓使の勤めは、数十人にのぼる開拓使お雇い外国人の中で最も長い。ダンは北海道酪農の父のみならず、北海道の真の開拓者といわれた。ダンの教え子達は、北海道の開拓のあらゆる分野で活躍する。
1882年(明治15)、開拓使が廃止になると、ダンは駐日外交官となり、日清戦争の早期終結に尽力した。その後、日本の近代産業の発展のために、石油掘削会社や三菱造船所などで、実業家としての道を歩み、人生の56年間を日本のために働いた。
ダンの写真に寄り添うように、二枚の日本人女性の写真が飾られている。ダンの日本での生活を支えた、二人の夫人の写真である。最初の夫人ツルは、日本女性としての献身的な愛情をダンに捧げ尽くして、ダンを生涯日本に引きとめることとなった。ツルは28歳で病死する。その後、ヤマ夫人と再婚して、4人の子供に恵まれたが、ヤマも夭逝する。ダンは再び悲しみに襲われた。だが、ダンの晩年は息子夫婦に温かく見守られて、1931年(昭和6)、東京の自宅で82歳の生涯を閉じた。青山墓地に、二人の夫人と共に眠っている。
記念館の運営は、現在南区から委託を受けている「エドウィン・ダンの会」があたっている。真駒内の地域の人々が、清掃や庭の管理、来館者のサポートをおこない、日本の恩人である、ダンの業績を語り継いでいる。
文化庁の登録有形文化財であり、近代化産業遺跡でもある記念館は、札幌市の景観資産にもなっている。
エドウィン・ダン記念館
利用案内
所 在 地:札幌市南区真駒内泉町1 TEL:011―581―5064
アクセス:地下鉄真駒内駅徒歩10分
開館時間:午前9時半~午後4時半
10月31日までは水曜休館。11月から3月は金土日曜のみ開館
年末年始は休館
入 館 料:無料
付近の見どころ
記念館の庭から続く、「エドウィン・ダン記念公園」は1964年(昭和39)にダンを記念する施設として造られた。真駒内用水路が流れ、木々の緑にあふれて、春には桜の名所ともなる。高さ6メートルを超えるダンのブロンズ像は、羊を肩に乗せフォークを抱えた、仕事姿である。
文・写真 山崎 由紀子