第10回 「石狩市はまます郷土資料館」 ―漁場繁栄と庄内藩開拓の歴史を伝える―

連載 北のミュージアム散歩

 「北のミュージアム散歩」は、道新文化センターのノンフィクション作家を育成する「一道塾」(主宰・合田一道)の塾生が書いた作品を連載するものです。道内にある博物館、郷土歴史館、資料館などを回り、ミュージアムの特色を紹介しながら、ミュージアムの魅力やその存在する意味を問いかけます。
第10回は、石狩市の「はまます郷土資料館」です。ぜひご愛読ください。

(合田一道)

■第10回 「石狩市はまます郷土資料館」 ―漁場繁栄と庄内藩開拓の歴史を伝える―

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石狩市立はまます郷土資料館

 札幌から留萌方面に向かって、日本海沿いの国道231号を北上すると、風光明美な浜益(石狩市浜益区)に着く。
道路に沿って細長く延びた街の北はずれ、海側に、石狩市立はまます郷土資料館が建っている。基礎の石積みの上に板張りの壁、赤い屋根が印象的な古い建物だ。

この付近は、昔から漁業資源が豊富なところで、安永年間(1770年代)にはハママシケ場所が置かれ、ニシンやナマコ、アワビ、サケなどが主産物となっていた。
そうした土地柄を象徴するかのように、この資料館の建物は、もともと網元の白鳥家が経営していたニシン建網漁場の番屋を復元したものだ。
延べ床面積は365平方メートル。古い木造平屋で、中央入り口を挟み、左に漁民たちが寝起きした居住区、右に親方や家族の住居区、事務所などが配置されており、ニシン番屋の典型的な特徴を残している。

館内には囲炉裏や鍋、ランプ、飯台や食器、箪笥、お櫃、蓄音機、柱時計、衣類などの生活用具、ニシン漁で使われていたモッコなどの漁具、その他様々な資料がところ狭しと並べられている。その中には、経営者だった白鳥浅吉の肖像画や写真なども含まれている。
浜益の白鳥家は、安政3年(1856)に白鳥栄作という人物が羽後国(山形県)の酒田から来住したことに始まる。浜益が幕府直轄地となった翌年のことで、最初は運上屋の下請負だったが、やがて自ら漁場経営を始めた。

元治元年(1864)、甥の白鳥浅吉があとを引き継いで、しだいに漁場を広げた。明治に入ってからも、開拓使の漁場貸し付けを受けて事業を拡張し、明治32年(1899)にこのニシン番屋を新築した。
浅吉の息子源作は、大正時代にニシン沖揚げに蒸気機関によるウィンチを導入するなど技術の革新を行い、建物も十数棟に達して、浜益第一といわれた漁場設備を有していた。漁業経営以外にも6期にわたり村会議員をつとめるなど、地元に多大な貢献をしている。
株式会社の設立によって、白鳥家も会社に加入し、ニシン漁業は会社経営に移行していく。
しかし、昭和30年(1955)の群来(くき)を最後に、ニシン漁が壊滅したので、番屋は放置されて崩壊寸前になっていた。
昭和46年(1971)に至り、浜益村は開村100年記念事業の一環としてこの番屋を復元し、郷土資料館として開館した。これ以降、この建物は従来とは違った形で蘇(よみがえ)り、今日に至っている(浜益村は平成17年、石狩市に合併)。
資料館には、漁業関係以外の資料も展示されており、とくに興味を惹くのは、開拓使の大判官をつとめた松本十郎の書2点(掛け軸と扁額)や、のちに十郎の孫に当る松本友(とも)が浜益を訪れたときの写真1点が展示されていることだ。
この浜益には、かつて庄内藩が幕府に命ぜられて、北方警備・開拓のために多数の藩士や農民を送り込み、多額の資金を投入して陣屋や村を建設した時期があった。この頃、青年期の松本十郎も庄内藩から派遣されて1年ほど、この地に住んでいたのだ。

2点の書は、十郎がのちに開拓使の大判官となって来道した以降に、書かれたものと思われる。
資料館の外には、当時使用した三半船(枠船、起こし船)二隻も保存・展示されている。
資料館の建物は、昭和56年(1981)、浜益村指定文化財(現在は石狩市指定文化財)に指定されているほか、平成17年(2005)には、水産庁の「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」にも選ばれている。

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館内に展示されている元開拓判官 松本十郎の書

利用案内
所 在 地:石狩市浜益区浜益8番地 TEL:0133-79-2402
開館時間:5月1日~10月31日 午前10時~午後4時
休 館 日:毎週火曜日(祝日と重なる場合はその翌日)
入 館 料:一般300円、団体(15人以上)240円
交通機関:中央バス、札幌ターミナルから約2時間、浜益下車徒歩15分

付近の見どころ
庄内藩ハママシケ陣屋跡
所在地は石狩市浜益区柏木1―27。幕府から蝦夷地支配を命ぜられた庄内藩は、本拠地として浜益に陣屋を築く。木の柵で囲われ奉行所・足軽長屋・火薬庫などが並び、藩士など約200人が暮らしていた。付近には8カ村を建設し多数の農民を入植させて開拓させた。同藩の経営は慶応4年(1868)までの約9年間に及ぶが、戊辰戦争で本国庄内に危機が迫ると人びとを引き揚げさせた。現在は鳥居のような大手門(復元)のみが、いにしえの名残をとどめている。国指定の史跡。

文・写真 北国 諒星

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