元北海道副知事で北海道中央バスの社長を務めた中川利若氏(85)の葬儀が、14日午後6時から札幌市中央区の中央霊堂で行われた。道庁幹部やOB、中央バス関係者など約650人が参列し故人を見送った。「としわかさん」と言うよりも「りじゃくさん」と呼ばれ親しまれた昭和の副知事がまた1人いなくなった。(写真左は遺影に手を合わす参列者、右は故人が執筆した半生『流氷の記』と座右の銘『行雲如水』の盾など)
細い柔和な目、普段は穏やかな眼差しだが一転眼光が刺さってくる時があった。茫洋とした雰囲気の中に潜む怜悧な断片――1人の人物の中に静と動がそれぞれの居所を占め、時折外に顔を出してくる動の顔が、中川氏の本質だった。
昭和2年10月、稚内の抜海で生まれた中川氏は9男3女の末っ子。旧制稚内中学から秋田鉱業専門学校、北大法経学部法律学科を卒業して道庁入り。
道では民生部長から教育長、副知事を務めた。教育長を4年務めた後に副知事4年と、特別職8年間で道庁生活を締めくくっている。
とりわけ昭和56年6月から同60年6月までの副知事在任中は、前半2年間が堂垣内尚弘知事、後半2年間は横路孝弘知事のもとで道政の舵取りを支えた。
自民党道政から社会党(当時)道政に切り替わった中で、中川氏は道政のソフトランディングを託されたのだが、スムースなバトンタッチの裏には中川氏の存在があったことは確かだ。
道庁退任後は、寿原記念財団理事長に就いたが、平成7年から北海道中央バス社長を務め、同11年会長、同15年に相談役に退いた。中央バスでは代表権のあるトップとして6年間采配を振るった。
中川氏は社長就任間もないころに、20人が死亡した豊浜トンネル崩落事故に遭遇する。トンネルを通行していた中央バスに岩盤がのしかかり乗客・乗員を襲った。中川社長は危機に直面して冷静さを失わず遺族や行政への対応を進めていった。後日、中川氏が中央バスの一線から去る際に「あの時は大変だった」と初めて口にしたという。
中川氏は苦難に直面したときに、故郷・抜海から眺めた利尻山を思い出すことにしていた。春夏秋冬を通じていつも利尻山は孤高に秀麗を保っている。「利尻山のように晴れた日でも曇った日でも変わりのない人間でありたい」――故郷から見える利尻山が中川氏の生きる手本だった。