ビジネスの基本は、今ある事業モデルにいかにプラスアルファ、プラスインしていくかだ。TKPは1時間1人100円の会議室でスタートしたが、マイクやスクリーン、プロジェクターなどが必要になってきた。こうした機材を含めてレンタルしたところ、弁当のケータリングのニーズも出てくるようになった。売り上げ単価がどんどん上がっていった。「お客さまの数×顧客単価×回転率」をどんどん高めることが、売り上げを飛躍的に伸ばすことに繋がった。
2005年に会社を設立して、最初につくった支店が、翌年に開設した札幌支店だった。支店の仕事として、当時のNTT会館と呼ばれていたホテルルーシス札幌を2006年に引き受けて運営を始めた。会社をつくって2年目にホテル事業に進出したわけだ。大宴会場があったので、ブライダルを受注するなど、リスクに果敢に挑戦した。しかし、難しい局面を迎えて、あえなく撤退した。撤退は早くしないといけない。
皆さんは、損切はいいこと、悪いこと、どっちだと思うだろうか。ディーラーをやっていた経験から言うと、株を買い、上がってから売るのが当たり前だが、買ってから下がる時がある。下がる時には、早く売らないとどんどん下がって、売ることもできなくなってしまう。そうしたことはよくあることだ。そして、塩漬け株になる。そうなると、何の発想も出てこなくなる。将来に繋げるためには、早く撤退することが大事だ。将来を考えないのなら、撤退しなくても良い。ずっと持っていれば良いだけだ。しかし、もっともっと成長しようという思いのある人は、撤退の連続が必要になってくる。そういう意味では、TKPは撤退の連続だ。
札幌のホテルの話に戻そう。2006年に札幌に進出してすぐにホテルの運営を始めたが、4ヵ月で撤退するのは、非常に心苦しい選択だった。撤退したら、違約金を含めて大きな出費となり、TKPは倒産してしまうのでは、とさえ考えた。2006年の8月からホテルを始めたが、最初は業績も良かった。11月になって寒くなったが、日本シリーズで日ハムが優勝、11月の1週くらいまでは良かった。2週になると、客足が少なくなってきた。朝、ホテルで朝食を食べていたら、お客が15人くらいしかいないのに、社員が20人もいた。そのことに大きなショックを受けた。
ルーシス札幌の近くにあるジャスマックホテルの露天風呂に浸りながら、どうしようかと考えていたら、空から雪がチラチラと降ってきた。それが身体に当たって寒さを感じた。そして、「ああ潮時だ」と思った。5ヵ月くらい札幌に住んでいたが、また、いつか捲土重来(けんどちょうらい)をするぞ、と撤退を決めた。その時、たまたま大通にあった札幌第一ホテルが、ルーシス札幌を引き受けることになり、何とか息を繋ぐことができた。
TKPには、3~4年に1回くらいの頻度で大事件が起こる。これが最初の事件で、まさにTKP存亡の事件だった。その後の大事件は、リーマンショック。あの時は、1ヵ月で5億円のキャンセルが出た。まだ、資本金がそんなに多くなかった時代に、1ヵ月5億円のキャンセルが出ると何が起きるか。1ヵ月だけで、営業利益はマイナス1億円になってしまった。だが、その時も運が良かった。実はその前の年、リーマンショックと重なって上場できなかったが、シンジケートローンで銀行からある程度のお金を借りていた。そのお金があったので、1ヵ月1億円の赤字を何とか乗り越えることができ、その後の黒字に繋った。
当時、家賃だけで毎月2億円を払っていた。リストラするのは簡単だが、そうしないように、まず原価を下げようと動いた。2億円かかっている家賃を、自ら交渉して半額の1億円にしてもらった。そうすると1億円のコストが下がり、営業利益のマイナスはゼロになった。それに加えて、会議室の貸し方を変えた。それまでは、研修用だけに貸していたが、試験会場としても貸すようにした。しかも、価格を抑えて貸すようにした。そうすると、新しいニーズを掘り起こすことができ、黒字体質に戻った。ピンチがチャンスになって、新しい営業先が開拓でき原価も下がった。この後に売り上げが戻り、利益も一緒に戻った。
2011年に東日本大震災が発生して、またもキャンセルの嵐になった。この時は、リーマンショックの経験があったので、攻めが大事だと積極策に打って出た。当社が苦しいということは、ホテルの宴会場などはもっと苦しいはずだ、と。それで、品川で2000人が入る大宴会場や厨房を借り上げることができた。そこからTKPの快進撃が始まっていく。
ホテルの厨房では、夜の宴会用料理しか作らない人たちに、ケータリング用の弁当を作ってもらっていたが、弁当工場を買収しようと常盤軒(東京都品川区)も買収した。また、海外にも進出して、ニューヨーク、上海、シンガポール、香港、マレーシアと事業を広げていった。しかし、海外に広げたものの、今回のコロナ禍で終焉を迎え、最後の海外拠点だったニューヨークを閉じ、台湾リージャスも2月で売却が終了、海外はゼロになった。攻めてだめなら撤退を常に繰り返しながら、会社を成長させてきた。