河村征治コープさっぽろ元理事長の蓋棺録②戸沼礼二氏(元パブリックセンター社長)『男らしく爽やかな人だった』

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 コープさっぽろの元理事長、河村征治さんが10日、76歳で死去した。強烈なカリスマ性を持ち、日本の生協をリードした3人衆のうちの1人だったが、96年に事業路線の対立から理事らの造反に遭い理事長を追放された。56歳の時だった。以後20年間、再び第一線に立つことはなかったが、頂点から引きずりおろされた無念さはどれほどのものだったろう。※蓋棺(がいかん)とは、人の評価は生前よりも棺の蓋をしてから定まるの意=蓋棺事定(ひつぎをおおいてこと定まる)P1080769(写真は、コープさっぽろの前身である札幌市民生協の創立総会=『コープさっぽろ30年の歩み』から)

 一時代を築いた河村さんを偲び、ゆかりのある人たちに思い出や人となりについて語って貰う蓋棺録の2回目は、旧パブリックセンター社長だった戸沼礼二氏(82)。戸沼氏は、1967年に広告代理店のパブリックセンターを設立、一時は道内最大手の広告代理店にのぼり詰めたが、メーン広告主だったそうご電器の破綻に連鎖、2005年に民事再生法の申請を余儀なくされた。その後、ニトリパブリックとして引き継がれ、戸沼氏は辞任した。河村氏とある意味で共通する境涯に置かれた戸沼氏に河村さんとの邂逅(かいこう)を語って貰った。
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 河村さんとの出会いは、私が北海道学芸大学のブント専従書記局員だったころ。ブントとは、共産党から分かれたメンバーで構成された共産主義者同盟のことで、当時は全学連の指導的立場だった。私が20歳代前半のころで、安保闘争の一環として北大のクラーク会館前広場にデモに行くと、そこに河村さんがアンパンを良く売りに来ていた。
 当時、河村さんは北大生協にいたので木箱にいっぱいパンを詰めて我々に売りに来ていたのです。ちょうど学芸大でも大学生協をつくる動きがあったので、河村さんから教えを乞うようになりました。
 
 その後、学生運動も山を越えたので、私は広告代理店のパブリックセンターを設立しました。最初の社員が北大生協に勤めていた人でした。その社員が結婚するとき、私は仲人を務め、河村さんも結婚式に出席していました。そこで20年ぶりに再会したのです。当時、河村さんは理事長でした。
 やがてコープさっぽろはパブリックセンターの得意先になりました。そのころ、コープさっぽろは大きな店舗を次々と出店していたのですが、ある日突然辞めたと聞いて本当にびっくりしました。それが96年のあの追放劇だったのです。
 何が原因でそうなったのかは良く分かりませんが、「仕事に付いていない」と聞いたので、あのころパブリックセンターが設立した『CWE(チルドレン・ウイメン&エキスパートの略)』という会社に来てもらいました。高齢者や子ども、女性が活躍できる社会を実現していくための会社でした。
 
 しかし、パブリックセンターは2004年11月に民事再生法を申請、事実上破綻しました。それに連鎖してCWEも立ち行かなくなり会社を清算することにしました。その時に社長だった河村さんが清算人になったのですが、とにかく一生懸命に最後まで誠意を尽くしてやってくれました。決して手抜きをせず、誠心誠意やる人でした。本当に最後まで真面目に取り組んでいただいた。
 私はCWEを始めた人間でしたが、パブリックセンターの破綻でCWEの幕引きができなかった。河村さんにその役目を担っていただき感謝でいっぱいです。
 CWEの理念のひとつであった高齢者支援事業は、微助人(びすけっと)倶楽部として現在も続いていますが、多くの人をまとめて軌道に乗せていただき感謝に堪えません。
 河村さんは、現在のコープさっぽろの元を作った人で生協運動の理想があったことを感じます。爽やかな人で常に相手の立場を考えている人でした。
 
 私自身、体調が万全でなく、新聞を見たりすることも億劫になっていたので、河村さんが亡くなったことをしばらく知りませんでした。知人からの電話で知った時には既に告別式も終わっていました。是非とも最後のお別れをしたかった。それが心残りです。(談)
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                        (この項終わり。次回はコープさっぽろ理事長の大見英明氏です)

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