道銀・堰八義博特別顧問が語る「さようなら道銀ビル」

金融

(写真は、空きビルになった「道銀ビル」)

 ーー道銀ビル売却を決めたのは、当時の藤田頭取だったのですか。

「本店売却の決断をしたのは藤田さんだったが、私の上司だった吉田(誠治氏)と3人で全ての数字を見ていたので、本店売却で3人は一致していた。OBからすると、『藤田さんは、大蔵省から来たから、本店に対する我々の思いなど分かっていない。だから簡単に売るんだ』という感覚もあったと思う。しかし、実際はそんなに生易しいものではなかった。藤田さんの判断は賢明だったと思う」

 ーーそれで、平和不動産に売却することになった。

「売り先を決めるのが、私の仕事だった。道銀ビルの底地と地下3階から6階までが道銀の区分所有、7階から上は竹中工務店の子会社タックプロパティが区分所有していた。タックプロパティに事情を話して、一緒に売ることになった。仲介会社を通じて3社が最終的に購入意向を示し、平和不動産に売却した。平和不動産は、東京証券取引所や大阪、名古屋など証券取引所の土地建物を所有していて、当時は、一般のオフィスビルをほとんど持っていなかったと思う。オフィスビルの取得は、新しい事業だったようで、その取っ掛かりになったのが、道銀ビルだった」

(写真は、道銀ビルでの最終営業日となった本店の様子=2024年4月19日15時頃)

「拓銀の本店ビルが取り壊されるのを、道銀ビルの中から見ていたが、一時期、一緒になろうという時があったから非常に寂しく、ひとつの時代が終わったという感慨を持った。正直に言えば、当行も他行のことが言えないほど苦しんだ。かろうじて生き残っただけで、本当にあの時代は大変な時代だった」

 ーー道銀本部は、2024年2月に竣工した「ほくほく札幌ビル」(道銀と北陸銀行の共同所有)に移りました。

「ほくほく札幌ビルに移ったのは、2024年4月15日の月曜日。前の週の12日金曜日までは、道銀ビルで仕事をしていた。12日の夜、役員10数人と一緒に、道銀ビルとほくほく札幌ビルが見える飲食店に集まり、皆で道銀ビルに『ありがとう』と言って乾杯をした。そのうえで、ほくほく札幌ビルを見ながら、今度は『これからよろしく』と乾杯をした。その時に、これまで話していなかったような道銀ビル売却に至る経過を役員たちにも話した」

「仕事をしている時には特段感じなかったが、いざ建て替えが決まり、ビルを出ると決まってからは、徐々に寂しくなった。20数年前にやむなく手放した時は、別の意味で悔しさと寂しさがあったが、ついに建物も壊されるのかと思うと、このビルが可愛そうに思えてきた。でも、60年経ったら、普通はビルの建て替え時期になるので、新しく生まれ変わってくれれば良いかなとも思うようになった。夜、道銀ビルは真っ暗で、近くを通って帰る際には、急に古びたビルに見えてしまうから不思議だ」

 ーー堰八さんにとって、「道銀ビル」はどんな存在だったのですか。

「入行した当時、道銀は、戦後に設立された銀行の中で一番成長率が高くて、勢いのある銀行だった。四季報の1行目には『戦後生まれの地銀で堅実経営』と書いてあったことを覚えている。そんな勢いがあった時代が、私の銀行員生活の第1期だとすると、第2期はバブル経済が弾けて、失われた15年とか20年の中で、もがき苦しんだ時代。そして第3期は役員、頭取としてドン底まで行った道銀を、職員の気持ちも含めてどう回復させていくかが使命となり、トップとしてその指揮を執った。振り返ってみると、道銀の光と影を、あのビルと一緒に体験してきた。一心同体のような存在だった」

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