道銀・堰八義博特別顧問が語る「さようなら道銀ビル」

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 札幌の駅前通と大通公園の交差点に位置し、60年間にわたって街並みを見守ってきた「道銀ビル」が、役割を終えた。北海道銀行の本店、本部などが入り、北海道の経済発展を支えてきた拠点でもあった。バブル崩壊後には、ビル売却など苦しい時代を経験してきたが、風雪に耐え抜いてきた「道銀ビル」には、道銀マンたちの魂が宿るかのような風格があった。解体後には、大通を象徴するような新たなビルが建設される。道銀の堰八義博特別顧問(68)に「道銀ビル」への思いなどを聞いた。〈せきはち・よしひろ〉…1955年5月生まれ、札幌市出身。旭丘高校、法政大学経営学部卒。1979年4月北海道銀行入行、97年4月経営企画部室長、98年7月経営企画部調査役、99年7月経営企画グループ調査役グループリーダー、2001年6月取締役執行役員、2002年6月代表取締役執行役員、2003年6月代表取締役頭取、2015年6月代表取締役会長、2021年6月特別顧問。

 ーー堰八さんは、道銀ビルで何年間を過ごしたのですか。

「道銀ビルが竣工したのは、1964年8月。2002年9月に平和不道産に売却するまで、約40年間、道銀が区分所有していた。私は1979年4月に入行、今年で銀行員生活は45年になるが、道銀ビルで通算38年間を過ごした。入行後、3年間は苫小牧緑町店に勤務、大阪支店には2年9ヵ月、本店に戻って人事部に8年10ヵ月、その後、中央支店に出たものの1年10ヵ月で経営企画部に異動になり、本部に戻ってきた。笹原(晶博氏、会長)さんも道銀ビルで30数年間過ごしているが、私の方が少しだけ長い。道銀に籍を置いている中で、一番長く道銀ビルで過ごした」

 ーー道銀ビルには、初代頭取だった島本融さんの思いが込められていたそうですね。

「道銀ビルが建つ前、あの場所には、日本銀行の札幌支店などがあった。その場所に建てるにあたって、島本(融氏、大蔵省出身の初代頭取)さんは北海道の一等地にふさわしい建物にしたかったようだ。道銀は、1951年に設立され、その13年後にこの本店ビルが誕生している。設立後の10年間は、組織が落ち着かない時代だったそうだ。いろんな銀行や会社からの寄せ集めでスタートしたうえ、島本さんも北海道に縁もゆかりもなかったから、当然といえば当然。そんな中で頭取に就き、自分流の考え方で10年間頑張って、それなりに落ち着き始めた頃だったと思う。そういうタイミングだったので、この建物を行員の統一感、連帯感の拠りどころにしようとしたのだろう」

「その考えから生まれたのが、本店にあった巨大レリーフだった。北海道の産業を表現したものだが、普通ならああいうものをつくる発想をしないだろう。島本さんは、道内の若手芸術家のサポートもしていたからこそ、佐藤忠良、本郷新、山内壮夫という北海道ゆかりの彫刻家3人に声を掛けたのだと思う。島本さんでなければ、あのビルはできなかった」

(写真は、「道銀ビル」の銘板)

 ーーそんな道銀ビルの売却は、苦渋の決断だった。

「道銀ビルを2002年9月に売却する時には、OBから厳しく言われた。私は当時、経営企画部長だったが、『何を考えているんだ』とか、『我々の心の拠りどころであり、島本さんが思いを込めてつくった本店ビルをなぜ売らなければいけないのか』と。あの頃は、決算のたびに純利益を超す不良債権処理があり、そのたびに自己資本を減らしていた。北海道拓殖銀行との合併が破談になり、道銀ファイナンスなどが破綻、赤字決算が続く大変苦しい時代だった」

「自己資本比率が下がり、大蔵省から早期是正措置を受け、1999年に道内企業に優先株を発行して537億円を調達、2000年には、450億円の公的資金を受ける流れになっていた。まさに首の皮一枚で繋がっていた頃だった。これをやらなくて済んだのではないか、あれをやらなくて済んだのではないかーー後からは言えるかもしれないが、あの時は必死にもがきながら、できることは全部やった。その中の一つが本店ビルの売却だった」

「2002年9月に道銀ビルを平和不動産に売却、売却益は約43億円だった。しかし、2003年3月の本決算では、550億7600万円の赤字決算になった。その時の不良債権処理は650億円になり、ピークの頃だった。大幅な赤字決算を経て、2003年6月に藤田(恒郎)さんが頭取を退いて、私が頭取に就くことになった。その後、2004年9月に北陸銀行と経営統合することになる」

「道銀ビル売却は、本当に苦渋の決断で悔しかった。涙が出るほど悔しかった。毎期のように赤字決算が続き、行員には賞与のカットなど経済的負担も強いていたので、行員にはきちんと説明して理解をしてもらったと思う。しかし、売却によって不良債権処理に決着がついたわけではなかった。毎期の決算を締めるたびに、不良債権処理に追われ、中間、本決算も赤字。当時は、大口の不良債権が出たら、債権管理部門から経営企画部に知らせが来た。2億円です、3億円です、5億円ですと。30億円のロスが出た知らせもあった。ひと月にそれが何回も来ると、半年で100億円、200億円になってしまう。当時の業務純益ベースは約300億円強、純利益は100億円強だったので、売却益で穴を少し緩和できたというくらいだったが、本店ビルを売却していなければ、もっとダメージが大きかった」

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