昨日に続いて新入社員に贈る札幌・北海道のバブルの記憶。日銀札幌支店長を経て北洋銀行副頭取として拓銀の営業譲渡を受け、頭取、会長のポストを歴任してきた高向巖札幌商工会議所会頭(76)。高向会頭が実体験してきたバブル時代の教訓を自らの言葉で語る『バブルの証人』の続きをお届けしよう。(写真は、札商高向巖会頭)
拓銀は一体何を間違えたのでしょうか。このことは冷静に点検して後に続く企業人たちの反省材料にしなくてはならないと考えます。私の見るところ、第1に経営者の問題です。野球の試合に例えますと、鈴木茂頭取が先発投手で4回あたりに打たれてピンチを招き降板しました。リリーフピッチャーの山内宏頭取は劣勢を立て直すことができないまま点をずいぶん取られてしまいました。8回あたりで登板した河谷禎昌頭取は、追加点を浴びながら何とか敗戦処理の役目を果たして試合を終了することになった、というところではないでしょうか。
鈴木頭取のことは近くで見ていたのでよく覚えています。彼は全力投球をしていました。しかし、何せ忙しすぎたのです。行内では、札幌と東京の会議や支店巡視、海外への出張、取引先との会食にゴルフ、宴会、それに行政当局や監督当局への対応もありました。最後は、札幌商工会議所会頭職まで兼ねていました。結果として、ゆっくりモノを考える時間がなかったと思います。
下から上がってくる融資案件をそのまま認め、むしろ激励をしてしまいました。本人は後に、「自分としては一点の曇りもない」と言ったと伝えられていますが、確かに1989年4月に頭取を降りたとき、株価は上り坂であり金融政策もまだ引締めには入っていませんでした。融資案件で不良化したものもそれほど多くありませんでした。
しかし、後に膨らんだ不良債権は鈴木頭取の時代に手がけたものが多く、後輩たちを苦しめたのは事実です。おみこし経営、ボトムアップ経営の失敗というように結論づけることもできます。当時、北洋銀行の武井正直頭取は対照的に「異常なことは長続きしない」と公言、行内のはやる部下たちを抑制していました。鈴木頭取にもし沈思黙考する時間があったならば…と惜しまれる次第です。
第2に、もし拓銀が都市銀行ではなく地方銀行の道を進んでいればこのようなことにならなかったと思います。経営基盤である北海道自体の経済力が弱いうえに、都市銀行になって背伸びをしすぎたのです。東京や大阪、そして海外に展開するには残念ながら実力が伴わなかったのです。
第3に、赤字決算にすると信用不安が起こるという理由で、俗に言う「決算を作る」操作をして問題を先送りしたことです。拓銀が赤字決算にして実態を表に出したのは1992年度末、つまり1993年3月でした。このほか、露見すれば信用不安が起こるということで不祥事を隠蔽しました。これらは却って状況を悪化させたのです。
北海道の一般企業は、何を反省すれば良いでしょうか。自分自身がバブル志向の場合と拓銀に誘われてバブルに入って行った場合を含めての話になりますが、賃貸ビルにせよ、ゴルフ場、リゾートホテルにせよ、多くの企業がリスクの取り方を間違えたということです。あるプロジェクトに資金を投入する場合、万が一失敗しても耐えられるかどうかの計算が不十分でした。
期中決算を赤字にしないで済むか、あるいは最後の砦として純資産をマイナスにしないで済むか、それを考えずに身の丈を超える投資をしてしまったケースが少なくありませんでした。確かにバブルの崩壊は、想定外の規模でした。それを招いた金融財政当局の責任は大きい。しかし、経営は結果責任ですから言い訳はできません。
今生きている企業は、バブルを生き残ってきた企業か、再生を経て生き返った企業、あるいはバブル後に生まれた企業ですが、同じ北海道の経営環境の下では、またあの時と同じことが起こらないとは限りません。現在進んでいる金融量的緩和と財政赤字拡大はどう見ても異常です。フローの物価は静まりかえっています。ストックの株価、債券価格、地価、外貨相場は上昇しています。アンバランスな姿はいつか来た道の始まりなのでしょうか。心したいところです。(終わり)