プロ野球北海道日本ハムのドーム候補地として札幌市の賃借要請に検討することを了承した八紘学園。昭和初期に開学したこの学園は、市街地近くに広大な農場用地を所有しているゆえに高度成長期以降は用地の一部を絶えず切り売りする苦難の歴史を抱えている。日ハムのボールパーク構想に揺れるのも、こうした歴史の必然かもしれない。(写真は、道立産業共進会場)
学園の詳しい歴史は割愛するが、昭和初期に栗林元二郎が当時増え続ける人口問題や不足する食料問題を解決するため、農業実習に重きを置いた学園として当時の札幌郡豊平村の用地110haを苦労の末に取得して創設された。
戦後は、あまりにも農場用地が広すぎるとして同町の農地委員会から半分以上の用地を「開放せよ」と迫られることもあったほど。
1968年には、栗林理事長が用地の一部を利用した「農場公園化構想」を提唱、時の道知事だった町村金五氏がこれに共鳴して他の場所で計画していた道立産業共進会場の建設を申し出て同学園も了承。約30haの土地を貸して72年3月に通称グリーンドームが完成した。
82年には、このグリーンドームを主舞台に「北海道大博覧会」が開催され、周辺には大型遊具も設置された。博覧会後には主催者側だった北海道新聞社が「酪農遊園地」として遊具を引き続き利用した公園にしたい旨を学園に提案したが、学園はこれを認めなかった経緯がある。
しかし、その後有識者たちはグリーンドームとその周辺の土地を道が買い取って「産業自然公園」にすることを提唱。有識者には、雪印乳業初代社長の佐藤貢や岩本常次・道経連会長、今井道雄・道商連会頭、工藤勇・ホクレン会長などが参加していた。
道はこの提唱を受けて学園側に土地買収を申し入れた。学園は賃貸継続を要望したものの結果的に道の要望を聞き入れざるを得なかった。88年には、グリーンドームと学園の農場の一部を使って「世界・食の祭典」が開催されたが、結果は入場目標400万人に対して175万人、90億円という巨額赤字を出して失敗に終わった。札幌市とは、学園用地の南北を分断する北野通の用地買収で軋轢が生じたこともあった。
こう見てくると、学園所有地は戦後、時代とともに揺れ続けた歴史だったといっても良い。北海道大博覧会や食の祭典など北海道を代表するイベントの舞台ともなったことを考えると日ハムのドーム構想がこの地に浮上するのも歴史の必然かもしれない。学園は、市の進める日ハムボールパーク候補地にOKを出すのかどうか。