きのとや長沼昭夫会長が語る「起業、挫折、成長の軌跡」①

経済総合

 優れた起業家を表彰する「EYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤー2016ジャパン」の北海道地区代表に選ばれたのが、洋菓子専門店「きのとや」の長沼昭夫会長。長沼会長は、北大卒業後、仲間とともにユートピアを夢見て日高で農業を始めたが挫折。傷心のまま札幌に戻り、大手スーパーに中途入社。そこに勤める中で自ら事業を興したいという意欲がめらめらと沸き起こってくる。衝き動かされて始めたのがお菓子屋だった。素人同然で始めて紆余曲折の後、北海道を代表するスイーツ専門店に成長した。子息が手掛けるグループ会社のBAKEとともに、今やアジア市場で北海道スイーツを発信する象徴的な企業になっている。10月11日に札幌グランドホテルで開催された受賞セレモニーでの長沼会長のスピーチを2回に亘って詳報する。(本サイトがスピーチ内容を構成しました)
IMG_8950(写真は、昨年の北海道代表・北の達人コーポレーション木下勝寿社長からトロフィーを手渡されたきのとや長沼昭夫会長=右)

 私は今日が誕生日。1947年10月11日生まれで69歳になった。69歳でアントレプレナー(起業家)とはどうにも照れくさい。しかし、推薦をいただいたからには一生懸命、北海道を代表して来月の帝国ホテルで開催される全国大会に挑戦したい。  
 私は33年前、1983年7月23日に「きのとや」を創業した。全くの素人でこの業界で働いたこともなければ知り合いもいない。そんな中での起業だった。
「どうしてお菓子屋さんを始めたのですか」とよく聞かれるが、私の義父がたまたま現在の「きのとや白石本店」のある白石・南郷通に2階建ての小さなビルを建て、1階のテナントを探していたことがきっかけだった。
 そこはずっと空いたままだった。なぜ空き店舗になっているのかと義父に聞くと、「実はお菓子屋さんに入ってもらいたいと思っているが、決まらなくて困っている」ということだった。なぜお菓子屋さんなのか、と聞くと「ケーキやお菓子を買いに来ているお客さんはみんな幸せそうにニコニコと笑顔で買いにきている。その姿を見ると、本当にお菓子屋さんはいい仕事だなと思う。だからお菓子屋さんに入って欲しんだ」と。

 世の中で酒屋とお菓子屋は絶対なくならないらしい。お酒は、時代とともにウイスキーやビールが注目されて酒の種類は変化するが、お酒そのものはなくならない。お菓子や甘いものも人の心を和ませて決して世の中からなくならない。「そうか、そんなにいい仕事なら自分でやってみよう」と思い、「私にこの場所を貸して欲しい」と頼んだ。それが今から33年前のことだった。

 私は札幌生まれの札幌育ち。家は貧乏で父は私が中学1年、13歳の時に病死した。母は6人の子供を1人で育てた。父は長野県出身で、北海道には18歳のころに来て、牧場を経営する夢をもっていたそうだ。その話を母から聞いたのは、私が大学に入ったころだった。
 私は学生時代、山スキー部に入っていた。部の先輩が卒業して日高の新冠でユートピアを作るという。一緒にやろうと誘われた。ユートピアとは総合畜産業のことで牛や豚を飼い、ビートなど畑作をして自給自足のユートピア牧場を作るということだった。その時、父のことを思い出し、父が長野県から単身やってきて果たせなかった夢を私が代わって果たそうという思いで先輩の誘いを二つ返事で引き受けた。そして卒業後、まっすぐ新冠の山奥にある開拓離農地に入った。
 
 100町歩ほどの広いところで農地取得資金という国のお金を借り農業を始めたが、そんなに甘いものではなく苦難の連続だった。私が札幌を離れて新冠に行ったとき、出発を見送ってくれた母親は1ヵ月後に急死した。末っ子の私が大学を卒業して社会人になって、独り立ちしたのを見届けて亡くなったような気がした。
 結局、牧場経営は4年で挫折した。新冠から逃げるようにして飛び出し、札幌に戻ってからは居酒屋の店長やアルバイトを転々とした。29歳の時に「このままではだめだ、人生をもう一度やり直そう」と新聞広告で見つけた大手スーパーの中途採用に応募して運よく採用された。それから5年間、サラリーマンとして34歳まで勤めた。

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