伊藤組土建(本社・札幌市中央区)の取締役会長で、北海道商工会議所会頭、札幌商工会議所会頭などを務めた伊藤義郎氏が、2023年12月5日、老衰のため死去した。96歳だった。1893年に、新潟県出雲崎出身の伊藤亀太郎氏が渡道して伊藤組土建を設立、義郎氏は、1926年12月生まれの3代目当主として、半世紀以上にわたって北海道の建設業のみならず、北海道経済をリードしてきた、経済界の重鎮だった。(写真は、伊藤義郎氏)
伊藤氏は、バブルの生成から崩壊、そして失われた30年と激動した平成の日本、そして北海道経済をつぶさに体感してきた人物だ。伊藤氏の脳裏に刻まれた記憶は、時を経てどう熟成されたか。5年ほど前に聞いた伊藤氏から聞いたエピソードを交えて紹介する。
1997年11月17日の北海道拓殖銀行破綻の際には、道商連会頭だったが、当時を回想してこう話していた。《破綻発表の前日に大蔵大臣の三塚博さんから私に直接電話が掛かってきた。『拓銀が明日破綻するので、伊藤さんに頼みがある。日銀支店長がうかがうから手伝ってほしい』と。拓銀の資金繰りが厳しいということは知っていたが、まさか破綻するとは思っていなかった。電話を切って待っていると日銀支店長がやって来て、『伊藤さん、今日から明日にかけてトラックを5~6台貸してくれないか』と言う。こっちは商売だからいくらでもトラックはあるから、『いいですよ』と返事をした。どうするのかと聞いたら、全道の拓銀支店に現金を運ぶと。全支店に送る額は2兆円。翌日にかけて全道に現金を運んだそう。拓銀の支店はびっくりしたそうだが、日銀はきちんと預金額を調べて同額を手配したそうだ》
当時の堀達也知事と伊藤氏、北海道経済連合会の戸田一夫会長(北海道電力会長)、北海道経営者協会の武井正直会長(北洋銀行頭取)、北海道経済同友会の大森義弘代表幹事(JR北海道会長)が頻繁に顔を合わせて、拓銀破綻の影響を最小限に留めようと奔走した。
2001年に北海道開発庁が廃止されたが、それについてもこう述べていた。《1950年に北海道開発庁を設置しようとなった時、建設省の一部が独立するのではなく、人口が少ない北海道で総合的な体制をつくっていくために、まず一元的な組織をつくろうという議論があったことをよく覚えている。それから半世紀が経過して2001年に北海道開発庁は廃止され、国土交通省北海道局に変わった。私はもう一度開発庁を復活してほしいと思っている。これからの北海道は、日本の中でますますその役割が高まってくるからだ》
歴代知事にも、時に厳しい意見も言った。《北海道は、大きいので行政的にもカバーするのは大変。誰が知事に立ってやろうとしても、簡単にはいかないが、まず、どういう北海道にするかを考えることが大切。私は農業の強化がこれからの北海道の鍵になると思う》と述べ、さらに続けて《私は商工会議所を農業会議所というくらいにしたら良いのではないかと言っている。北海道の農業は日本一の規模ですから、北海道経済の中に加えるべきです。もっとも、(そういうことは)あまり言わないでほしいとは言われているがね…》
丘珠空港にはプライベートジェットが格納され、国内外の出張に利用した。北海道大学植物園の前にある伊藤邸と呼ばれた広大な邸宅には、豊平川の伏流水が湧出するメムがあったが、自然が残る敷地の一部を残してタワーマンションが建設され、伊藤氏はそのマンションのワンフロアに住む晩年を送った。後継者とされた子息は、事故で死去したが、孫がおり、4代目当主と目されている。卒寿を超えた頃に伊藤氏はこう語っていた。《北海道に生まれて生を受けたので、北海道を少しでも良くするため、まだやらなければならないことはたくさんあると思っている》