北海道大学大学院経済学研究科の吉見宏教授が、今年1月2日に病気で亡くなった。61歳というあまりにも早い別れに、関係者は戸惑いを隠せず、今も冷静に受け止められない状況が続いた。偉ぶらず、等身大で接する吉見さんは、大学教授というよりも頼りがいのある兄貴というイメージが強かった。九州出身だが、九州男児の武骨さはなく、北海道の風土と社会によく馴染んだ人だった。吉見さんと生前、付き合いのあった人たちに、それぞれの吉見さんの人となりを語ってもらった。(写真は、北海道財務局で講演する吉見宏教授=2016年3月29日、北海道第一合同庁舎で)

 吉見さんは、1961年生まれ、長崎市出身。高校時代は医師を目指していたというが、直前になって自らを見つめ直し、本当にやりたいことは何かと自問して会計学を選択した。九州大学経済学部から大学院修了後に日本学術振興会特別研究員を経て、1991年、会計学の教員として北大経済学部講師に就いた。以降、北大大学院経済学研究科助教授、教授、研究科長、学部長に昇進。山口佳三北大総長の副学長を務め、2020年10月からは寳金清博総長を理事・副学長として支えてきた。

 吉見さんが、九大から北大に移る際に、調整役として動いたのが北大名誉誉教授の濱田康行さん(金融論)だ。「当時、私は40歳くらいだったが、若い頃に久留米大学で教えていました。その頃、九大のゼミにも顔を出していて、九大教授陣とは少なからず面識がありました。北大は会計学の先生を招聘しようと、吉見さんに目を付けたが、北大で一定期間教えたら、九大に連れ戻されるかもしれなかった。それで、北大の当時の経済学部長から、『引き戻さないことを念押しして来てほしい』と頼まれ、九大の学生部長と面談しました。学生部長は学長に次ぐナンバー2。私が、引き戻さないように頼むと、その学生部長は『指導教官に言っておく』と要求を受け入れてくれました」

 もっとも、吉見さんには、そんな裏話は伝えられていない。「私は吉見さんに、そのことを話さなかった。こういう話は、あまり本人にするものではないからね」と濱田さん。濱田さんと吉見さんは、そんな縁もあって、専門は違うものの一緒に2週間の米国・カナダ研修に出かけたこともある。「もう一人の先生と、3人で訪問先に出かけたり、別々に行動したりして、たまに一緒にホテルに泊まることがありました。訪問先では、ずっと英語で話しているので、3人で会っても英語と日本語が混ざってしまう。そしたら、吉見さんが『濱田先生の日本語はおかしいですね』と英語で言って、けらけらと笑った。このエピソードには吉見さんの人柄が出ていたので、今でもよく思い出します」と懐かしそうに話す。

 鉄道好きでも知られる吉見さんは、この時も暇があれば米国の路面電車に乗っていたそうだ。「どこに行っていたのと聞いたら、『ライトレールに乗ってきた』と。研究のためではなく、それは全くの趣味だったようです」と濱田さん(※吉見さんは、1996年に設立された市民団体「札幌LRT(次世代型路面電車)」の会会長も務めた)。

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