北海道銀行・笹原晶博会長退任インタビュー「バブル、マイナス金利を乗り越え、今思うこと」

金融

 北海道銀行(本店・札幌市中央区)の笹原晶博会長(68)が2025年6月に退任し、特別顧問に就いた。昭和54年(1979年)入行で、同期には、頭取、会長を務めた堰八義博さんや副頭取を務めて札幌ドーム社長に転じた山川広行さんたちがいた。笹原さんは、バブル崩壊後に深い傷を負った道銀の再生に向け、堰八さんや山川さんとともに健全経営の舵取りを行い、道筋を付けた。会長退任にあたって、46年間の銀行生活を振り返ってもらい、道銀の来し方行く末や北海道の今後について率直に語ってもらった。《ささはら・まさひろ》1957年2月、帯広市生まれ。小学校1年から札幌市に移り、札幌北高、北海道大学教育学部卒。産業教育学を専攻。1979年4月道銀入行、2003年6月取締役執行役員、2006年6月取締役常務執行役員、2010年6月代表取締役副頭取兼ほくほくフィナンシャルグループ取締役、2015年6月から代表取締役頭取兼ほくほくフィナンシャル代表取締役副社長。2021年6月に代表取締役会長に退いて、ほくほくFG副社長を退任。2024年6月には代表権を返上して取締役会長、2025年6月特別顧問。道銀入行の動機は、「ゼミの先輩が道銀を受けたが落ちてしまい、『俺の仇を取ってくれ』と言われたから」だそう。

 ーー藤田恒郎元頭取が、亡くなられました。

 笹原 病気療養中とお聞きしていましたが、大変残念です。ご冥福をお祈りしたい。2025年4月1日に優先株を全て償還することができましたが、そのことは、藤田さんが一番気にされていたことでした。ご家族にお伝えして、藤田さんに伝わればいいなと思っていました。亡くなられた後に長女の方とお会いする機会があって、奥さまから藤田さんに償還を伝えていただいようで、良かったなと。ご存命中にお伝えできて本当に良かったです。ずっと気にかけていらっしゃったので。

 ーー道銀会長を退任されて、率直なお気持ちは。

 笹原 銀行員として46年間、取締役として22年間務めさせていただきました。これほど長く務めることになるとは、予想していませんでした。おそらく、道銀での在職最長になったのではないかと思います。2025年4月1日に、当行・ほくほくフィナンシャルグループ最大の懸案であった優先株の全額償還が完了しました。26年間の長きにわたって保有していただいた株主の皆さまへの感謝の気持ちでいっぱいなのですが、道銀にとっても大きな区切り、節目の年になったと思います。それは、まさに私にとっての区切りでもあると考えました。

 現在、兼間祐二頭取のもとでしっかりとした銀行経営の体制が構築されているほか、ほくほくFGとしても中澤宏社長、兼間副社長の体制でグループの一体感が高まっていることから、安心して退任することができると思ったからです。昨年が、ほくほくFGの設立20周年でしたので、これも一つの区切りになりました。

 ――入行当時の思い出を聞かせてください。

 笹原 私は、1979年4月に入行しました。初任地は、旭川市の神楽支店です。残念ながら今は存在しておらず、旭川支店で一体的に運営されています。神楽支店は、住宅街にある総勢15人程度の小規模店で、職員同士が家族のようなアットホームな雰囲気でした。当時の道銀は創立28年目、戦後生まれの若い銀行として急成長していた大変アグレッシブな雰囲気でした。北海道拓殖銀行に追いつけ、追い越せ的な躍動感があり、職員も非常に若かった。

 また、道内の各地方都市にも大変活気があった時代でした。北海道の人口は、1997年まで増加し、その後減少するのですが、当時はまだ人口も増加し、イラン革命に端を発した第二次オイルショックにも関わらず、道内経済は、4%台の安定した成長期であったと記憶しています。最初の1年は、当座預金などの後方事務の担当でした。新たに導入されたウィンドマシンという事務処理の機械を華麗に操り、得意満面で仕事をしていたように思います。一方で、不器用なところもあって、伝票計算処理や札勘定処理などは苦手で、数日で担当をクビになることもありました。やはり、人それぞれ、得意なものを伸ばすのが良いですね。

 当時の金融行政は、日銀による窓口規制、つまり銀行への資金供給を選別して行い、貸し出しの伸びをコントロールする非公式な規制がありました。マネーサプライが増加し、インフレ圧力が高まることを警戒し、金融引き締め策の一環として行われたもので、個別の銀行ごとに融資の伸びを抑制するものでした。したがって、お客さまの資金ニーズが旺盛であるにも関わらず、日銀からの供給資金が制約されていることから、どの銀行も自前の貸し出し原資である預金を伸ばすことに必死でした。

 私も2年目は、得意先係として、預金獲得に邁進していました。とりわけ、公務員などのお客さまが退職を迎える春先は、夜討ち朝駆けで退職金の預かりや年金指定の獲得に奔走していたことを思い出します。

 一方、生活面では寮生活で、市内各店舗の多くの先輩同僚との共同生活でした。当時は相部屋で、寮内の規律もしっかりしており、自治寮的な統制の下で、楽しい寮生活を送りました。ただ、朝早く起きるのが苦手だったので、早朝にたたき起こされて、野球の朝練に駆り出されることは辛かった。当時、道銀旭川地区は、旭川市内の社会人野球リーグに所属していたほか、道銀の地区別対抗野球大会も毎年開催されるなど、野球熱が高い時代でした。

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