「北のミュージアム散歩」は、道新文化センターのノンフィクション作家を育成する「一道塾」(主宰・合田一道)の塾生が書いた作品を連載するものです。道内にある博物館、郷土歴史館、資料館などを回り、ミュージアムの特色を紹介しながら、ミュージアムの魅力やその存在する意味を問いかけます。
第11回は、石狩市の「石狩尚古社資料館」です。ぜひご愛読ください。
(合田一道)
■第11回 「石狩尚古社資料館」 ―砂丘に埋もれた石狩俳壇の足跡―
石狩尚古社資料館
吹き上げる川風に乗ってカモメが飛んで来た。私設博物館資料館「石狩尚古社」は、目の前に石狩川が流れる石狩市本町地区にある。この地区はかつて鮭漁で栄え、周辺には当時の名残を感じさせる商店や神社など歴史的建造物が点在する。
2階建て民家風の資料館の玄関で靴を脱ぎ、足を踏み入れると正面の展示ケースを始め、壁一面の掛け軸、短冊、文献資料、書籍などが所狭しと並んでいて目を見張る。
明治から昭和初期にかけて繁盛した中島商店の店主が残した俳句資料と収集した書画だ。
「今でいうと、太物(反物)を中心に何でも売っている百貨店のような店だったのですよ」
館主の中島勝久さんは視線を上げる。そこには当時の広告である「引き札」が展示されている。華やかなデザインの多色摺り石版技法で刷られたものだ。鮭鱒漁の好景気に乗って店は繁盛し、遠く樺太にまで販路をのばしていたという。
中島家4代目勝久さんは、昭和50年頃から十数年間かけて、大火や戦災に遭うこともなく土蔵に眠っていた、膨大な資料の整理をした。指物師であった父の勝人さんはそれに協力して展示ケースや額縁を製作した。平成元年(1989)に私費を投じて資料館を開館した。
元々俳句結社だった「石狩尚古社」は安政3年(1856)に創設された。町の名士達で構成され、その活動を支えていたのは鎌田幹六(俳号 池菱)で勝久さんの曽祖父にあたる。遡ると明治2年(1869)、佐渡出身の中島伍作が小樽から石狩に移り住み荒物業を営んだ。だが若くして伍作が亡くなった後、番頭であった幹六が伍作の妻と結婚して、呉服店の経営に手腕を振い中島家の危機を乗り切った。幹六は京都、大阪などに商品の買い付けに赴き、これらの資料を収集した。
大福帳のぶら下がる階段を上がると、2階には慶弔時使用された什器類、大型の櫃や酒樽、藍染の半纏などその時代を彷彿とさせる生活用具、商業資料が展示されている。
明治35年(1902)、俳句結社の物故会員の大法要が行われ、尚古社の句集『尚古集』が刊行された。応募作品は全国各地から寄せられた。その中には、明治17年(1884)に起きた「秩父事件」で死刑判決を受けた井上伝蔵もいた。名を伊藤房次郎と変え小間物屋を営みながら俳句を詠み、石狩で23年間過ごした。
俤(おもかげ)の眼にちらつくやたま祭り
井上 伝蔵 明治35年に詠む<
明治の終わり頃になると、乱獲や石狩川の開発に伴う水質の悪化で水揚量は激減した。そして大正末期には会員が高齢化していき、昭和11年(1936)には尚古社を支えていた幹六が亡くなり活動は衰退していく。
かげうとき電燈を我月夜かな
澄月園(ちょうげつえん)池菱 辞世の句
資料館では収蔵資料を基に毎年テーマ展を開催している。平成30年(2018)は中島家も来道150年を迎え、北海道が命名された年と同じになる。中島さんはこれを記念して、収蔵されている石狩アイヌのコレクションやそれに相当する和人の道具の比較展示を是非実現したいと意欲を燃やしている。
館を出て、近くの弁天歴史公園の伝蔵の句碑の前に立つ。北から吹いてくる強い潮風に、かつての石狩の喧騒を聞いた気がした。
館内の展示物
利用案内
所 在 地:石狩市本町西3番地 TEL:0133-62-3380(中島 勝久さん)
入 館 料:無料
開館時間:私設資料館のため来場者がある時のみ開館
要事前予約
休 館 日:不定休
交通機関:
【 車 】札樽自動車道「札幌北IC」から国道231号線を留萌方面へ、道道小樽石狩線を左折し約3km(約40分)
【バス】中央バス「札幌ターミナル」から「石狩線」乗車、終点「石狩」下車(約65分)
付近の見どころ
弁天歴史公園 (弁天歴史通り 弁天町38番地)
石狩医院跡に、弁天歴史通りと一体的に作られた公園で、本町地区にあった運上屋をモチーフにした建物がある。施設内にはインフォメーションセンター、休憩ホールがある。
文・写真 鎌田 美枝