セコマ(本社・札幌市中央区)の赤尾昭彦代表取締役会長が8月19日午後零時48分、病気のため時計台記念病院で死去した。76歳だった。2年ほど前から東京に常駐して自社商品をトップセールスしていたが体調を崩し、6月から札幌に戻っていた。4月下旬に本サイト記者が東京事務所(港区新橋)でインタビューした際には、「私に残された時間は後5年。80歳までにはやり残したことはやりきる」と語っていた。早すぎる死に社内外に驚きが広がった。(写真は、赤尾昭彦氏。2016年4月22日午後、セコマグループ東京事務所にて)
1940年留萌市生まれで留萌高校卒業後に北の誉酒造に入社、その後食品卸の丸ヨ西尾(現セイコーフレッシュフーズ)に移った。北の誉時代には酒蔵にある部屋に先輩たちと住み、醸造シーズンになると大きな酒樽から滴り落ちてくる原酒をスプーンで掬って飲み、「あまりの度の強さにひっくり返ったこともある」と当時を懐かしみながら話したことがある。
丸ヨ西尾でススキノ営業や百貨店営業を担当し、「ススキノでは大きなお金を動かしていた。だから小さな商売はしたくない。北海道ではセイコーマートで1円、2円を積み上げるが、関東ではコンテナ単位でうちの商品を売っていく。関東ではイオンも伊藤忠もセブンもみんなお客さんだ」と語った。大きなカンバスに大きな絵が描ける経営者のベースはこの時代に作られたようだ。
丸ヨ西尾時代は、個人商店に酒や食料品などを卸す御用聞きの仕事も行い、その中から1971年にセイコーマートの1号店となる「コンビニエンスストアはぎなか」(札幌市北区)のオープンを手伝った。三越で棚割り(商品の並べ方)を研究したり、オカムラのショールームで新型の什器を探すなど、セブン―イレブンよりも早く、酒販店の将来を見据えて着々と手を打っていった。
コンビニの事業化のため、丸ヨ西尾を退職、その退職金を注ぎ込んでセイコーマートを設立。丸ヨ西尾の歴代社長が「西尾長光」を名乗ったことから、西と光を使ってセイコーとしたという。
赤尾氏は事実上の創業者だが、丸ヨ西尾の社長がセイコーマート社長を兼務する時代が長く続き、その社長が死去してから西尾家親族に禅譲されたものの解任の決断をするなど内向き志向の苦しみを味わったこともある。
セコマが大きく舵を切ったのは、10数年前。小売から製造や物流への遡上戦略だ。北海道拓殖銀行の破綻や雪印乳業の解体など北海道経済が揺れる中で、北海道の食材を生かしたメーカーへのシフトとロジスティクスを押さえることで“北海道型企業”に成長の方向性を定めた。「セブンーイレブンと違う土俵で商売をしないとまともにぶつかったら勝ち目がないですよ。土俵を変えたから何とか生き延びた。僕は良い企業になったと思うね」と4月のインタビューでは語っていた。
そのセブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文前会長とはかなり以前に名古屋で一度だけ会ったことがあるという。「確か日経新聞の講演会が何かだったが、ひと言、二言だけ交わしたことがある。とても冷たいオーラを持った人だと思った。絶対に負けないぞと思った」と述懐していた。
2004年には社長に就任し06年から会長に就いた。自社開発の牛乳、乳製品や菓子類を関東で直販するため70歳を過ぎてから東京に常駐、住まいも移した。自宅マンションから新橋の事務所まで1時間ほどの電車通勤も心掛けた。「北海道の商品は品質が良いのがすごい売りですよ。追い風を感じる。多くの企業の本社機能は東京。だから東京で納入が決まれば全国へ流れる。まるで物量が違うんだから。うちは、魚や野菜、生乳など原料を持っているでしょ。僕は原料主義だから現物がない限りは信用しない」
現物の原料しか信用しないという考えは戦争体験から来ている。「戦後に食べ物がなかったのを経験しているから、今、どっか(外国)から持ってくれば良いなんてとんでもない考え。そんなことをしていたら天災などで対応できなくなる。うちは、冷凍倉庫を自前で持ってそこに魚でも千㌧以上常時保管しているよ」
北海道の優位性を70歳を過ぎてあらためて肌で感じた赤尾会長は、北海道に向けてこんな発言をした。「北海道の優位性はすごいものがある。なるべく汚染物質なんか持ち込まないことだね。時代に流されて持ち込んだらね、北海道はだめになっちゃうよ」
4月のインタビューで赤尾氏は、「私が生まれた時代や環境、北海道という土地の中から自分なりの人生観ができて、それに沿って事業展開しているだけ。私の仕上げは自分の人生観そのものだよ」は話していた。セコマが道産子企業として異彩を放っている原点を垣間見た気がした。
なお、22日に通夜、23日に密葬が近親者、セイコーマート商業協同組合、社内関係者のみで行われた。後日、社葬を行う予定。
セイコーマート1号店の「はぎなか」代表の萩中末雄さん(79)のコメント。
「私は1961年から酒、たばこ、塩の権利を得て個人商店を始めたが、そのころから赤尾さんと付き合いがあった。よくスーパーカブに乗って御用聞きに来ていた。赤尾さんは、そろばんもできて帳簿もつけられるので、私の店の決算の時には良く手伝ってくれました。信頼関係があったので、実験でコンビニエンスストアをやらないかと誘ったのでしょう」
「『コンビニエンスストア』はぎなか』をやり始めたのは、70年ころ。当時、私の店は15坪でゴンドラの1本しかなく、あとは壁際に商品を置いていました。商品の陳列や棚割りは赤尾さんの指示で私は言われたことをやるだけでした」
「2号店、3号店のオーナーたちと赤尾さんとで帯広のスーパーにはよく視察にいきました。車2~3台を連ねて夜に走って帯広に行き、ヒントを得て帰ってくるんです。赤尾さんは仕事の鬼で、やり出したらとことんやる人だった。今年の正月にセイコーマート加盟店の新年会でお会いしたのが最後でした。私よりも若くて(死は)早すぎます」