幕末の1866年4月、札幌開拓のために大友亀太郎が札幌村に着任して今年で150年。それを記念した講演会が20日、札幌市東区の区民センターで行われた。ノンフィクション作家の合田一道氏が『大友亀太郎とその時代』をテーマに講演、会場には約250人が集まった。(写真は、大友亀太郎の足跡を紹介する記念講演会)
主催は、札幌村郷土記念館保存会。主催者挨拶で橋場善光会長は、「かつての農地も新しい街に変わり、先人の苦難を記憶する人も少なくなった。往時の記録を後世に残すのが記念館の使命。今回の講演会を機に大友亀太郎のことを知ってもらい、ぜひ多数の方に来館してもらいたい」と話した。会場では、大友亀太郎の出身地である小田原市に住む5代目子孫のメッセージも披露された。
大友亀太郎の足跡をざっと紹介すると次のようになる。彼は神奈川県の農民出身で二宮尊徳に師事。幕府は蝦夷地開拓の必要性を感じて尊徳に相談、尊徳は亀太郎が適任として推薦し、蝦夷地に入ることになる。函館に着いて士分が与えられ、姓を名乗ることになり、故郷の地名「大友」を使うことにした。ただ、故郷は「おおども」と濁点が付くが亀太郎は「おおとも」に濁らないようにした。
札幌村に入る前、木古内や大野、七飯を開墾し31歳の時に木古内で結婚。1866年4月14日に石狩の開墾適地として選んだ札幌村に着任した。それが現在の札幌市東区北13条東16丁目の近辺だった。
亀太郎は、現在の南3条付近の豊平川支流から長さ4㎞の堀を開削、それが一部創成川と重なる大友堀だった。水が得られるようになって察歩呂と呼ばれていた札幌村の開墾が進み、亀太郎は尊徳の報徳精神の下、開墾を指揮して発展の礎を築いた。
しかし、明治維新になって亀太郎は兵部省の役人になる。結局1870年に札幌を去り、以後81年に神奈川県会議員になって4期務め、選挙活動の最中に疲労が重なり自宅で死去、64歳の生涯だった。二度と札幌の開拓に関わることはなかった。
講演で合田氏は、「記録にはないが、北海道の名付け親で道内をくまなく調査した松浦武四郎と大友亀太郎はどこかで会っているはず。武四郎と亀太郎がもっと深くかかわっていたらどうなっていただろう。また、亀太郎が開拓使の役人になっていたら北海道はどうなっていただろう」と北海道開拓初期に活躍した2人の先人たちに思いを馳せていた。