コンサドーレ札幌で2009年11月まで9年間現役を続けた曽田雄志氏(36)が、元Jリーガーとして第2の人生を自力で切り開こうとしている。過去の栄光を頼りにするのではなく、プロスポーツ選手として体得してきた生き方の哲学を根幹に据え、スポーツを通じたコミュニティづくり、教育に活路を見出そうとする地道な取り組みだ。もちろんビジネスの視点も忘れてはいない。一流のサッカー選手が引退後も一流になれるかどうか、曽田氏がスタートさせた第2の人生は人間力そのものが試されることになる。曽田氏が23日にSATOグループオープンセミナーで講演した内容を構成して3回シリーズでアップする。(写真は、講演する曽田氏)
曽田氏は小学4年生からサッカーを始めた。理由は友人がサッカー少年団に入ったためで一緒に遊びたい一心だった。父親が野球選手だったこともあって、将来はスポーツ選手になりたいという漠然とした思いがあって中学時代もその少年団でサッカーを続けていたが、曽田氏が中学3年の時にJリーグが開幕。一流選手の姿をテレビで見て「とても無理だ」と感じ、一度はスポーツ選手になる夢を封印した。
そのころ勉強はしていたものの、将来の役に立つのかと疑問を持ち勉強にも力が入らなくなっていたという。そんな時、サッカー少年団の監督から手渡されたのが札幌南高の学園祭チケット。「行ってこい」と。訪れた学園祭で曽田氏は生徒だけでなく教師たちも一緒になって楽しんでいる光景に感動、南高入学を決意する。「楽しそうだったから」というのが南高を選んだ理由だった。
南高入学後もサッカーは続けていたが、「プロ選手になる夢は壊滅していた」という。高校生活は楽しさにかまけて勉強は二の次になって成績はいつもビリに近かった。高校2年で進路を決めなければならない時期になって「自分がすごいと思ったサッカー選手と一緒にプレーしてみたい」という思いが頭をもたげてくる。日本で一番サッカーの強い大学はどこだ、そうだ筑波大に進学しようと決意する。以降は苦痛の受験勉強に埋没する。「浪人していたら受験勉強の重圧に押しつぶされていたかもしれない」というほどの集中ぶりで現役合格。
しかし、憧れの筑波大サッカー部に入ってみると部員数は180人、日本代表選手も含めて1軍から7軍まであったうえ初めての1人暮らしで心細さが膨れ上がっていたという。
同期の新人は40数人。2ヵ月間はコーチがつきっきりで能力を見極め配属する軍を決めるのだが、曽田氏は身体能力が評価されて1軍に選ばれた。監督に言われてミッドフィルダーからフォワードに転向したものの2年生になっても1回も試合に出られなかった。「大学に進学したのは自分のサッカーの実力を確かめたかったのが目的だったからその目的は達成できた。留学もしたかったので退部届を監督に出したら、コーチが『もう1年、俺とやってくれ』としつこく懇願された。涙ながら退部届を仕舞い込んだ」(曽田氏)
3年生からレギュラーになり春と秋の大学選手権で優勝、関東選抜のベストイレブンに選ばれたり大学の日本代表にもなった。そうなるとプロのスカウトたちの目にも止まり始める。練習を終えて帰る道すがら、後ろから肩をポンポンと叩かれて振り返ると「浦和レッズの者ですが、うちに来てくれませんか」と声を掛けられた。その後も、川崎フロンターレの者です、セレッソ大阪の者ですと次々にスカウトから声がかかる。最後に声を掛けてきたのがコンサドーレ札幌。「地元に戻ってプレーしてくれませんか」という呼びかけに曽田氏は決意する。「地元ということと岡田監督が采配を振るっていたこともあって札幌に帰ってくる決心をした」と曽田氏。
小学生時代からプロ入りまでの12年あまりを振り返って、「気になることを解消したいという思いが強く、頭の中でザワザワすることに反応していたのがこの時期だった。明確な目標を持って進んできた訳ではなかった」と振り返った。
(次回は、コンサドーレ時代の軌跡を紹介)